将軍職の委譲

天文七年(一五三八年) 3月 近江国北嶺御所


 北嶺御所が完成してから、将軍・足利義晴は政務に忙殺されていた。元々身体が丈夫ではなく、一昨年には産まれたばかりの菊幢丸(足利義輝)に将軍職を譲ろうとするほど、義晴は心身共に疲弊していた。結局は撤回して現在に至るものの、将軍としては心許ないというのが実情であった。


 そのため、捌き切れる仕事の量に限りがあり、皺寄せが管領代である六角定頼に向かう。六角は幕府に舞い込んだ案件を、将軍の代わりに裁くという日々が続いていた。しかし戦後処理も相まって、処理能力は限界を迎えていた。


 そんな中、伊勢全土を掌握した靖十郎を義晴は手放しで褒め称えるしかなかった。先の内訌から、細川晴元は好機を窺っていたはずだ。六角の辛勝に一度は落胆しただろうが、その程度で野心を失うような男ではない。それゆえに、此度の南伊勢攻めは幕府内でも賛否が荒れていた。ここで手間取り、近江の兵を投入せざるを得なくなれば、細川はこれを好機と見て畿内の兵を動かす可能性が高い。逆に、北畠晴具を討ち取って求心力を大きく失した北畠を放置しておけば、兵力の回復した後に反攻の兵を挙げるに違いない。その際は、細川と手を組んで挟み撃ちを企てるはずだ。そうなれば、六角は非常に厳しい戦いを強いられる。そうなる前に、早めに後顧の憂いを断つという考えも、当然のものだった。


「浅井の煽惑で近江に内訌がもたらされた折はどうなるかと思うたが、さすがは靖十郎じゃ。損耗の大きかった近江から兵を出さず、自らの手勢だけで伊勢を攻略した」

「その手勢もほぼ無傷とか。老獪な星合中納言を翻弄し、敵に抵抗する術すら与えなかった。賞賛に値しますな」


 年寄衆の大舘尚氏が、感心したように顎の髭をさする。


「やはり味方に引き込んだ我の目に狂いはなかったようだな」


 義晴は不敵に微笑む。六角に自ら談判し味方に引き込んだ靖十郎の存在は、依然として立場の弱い義晴にとって自信の源泉となっていた。


「公方様、波多野備前守殿が面会を求めておりまする」

「備前が? 承知した。通せ」

「はっ」


 義晴は眉を歪める。波多野備前守秀忠は細川晴元の重臣で、丹波守護代を務める人物であった。家中でも一際強い権力を持っており、実質的な丹波国主として権勢を奮っている。秀忠は叔父・柳本賢治の遺志を継いで義維と義晴の和解を探ってきた男であり、義晴と細川の橋渡し役となっていた。


「失礼致しまする。公方様、事前の連絡も無く訪ねてしまい申し訳ございませぬ」

「構わぬ。それで、如何なる要件か?」


 額に浮かぶ汗を拭いながら、秀忠は一度唾を飲み込む。


「はっ、単刀直入に申しまする。公方様には堺公方(義維)様と和解をお願いしたく存じまする」

「ふむ、お主が以前よりその道を模索していたのは存じておるが、それは細川六郎が頑なに突っぱねていたのではないかな?」


 今更何を申すか、と肩の力を微かに抜く。和解の道を閉ざしていたのは細川である。義晴とて、実の弟と将軍職を巡って争うなど本心を言えば避けたかったのだ。それを許さなかったのが、自身の傀儡として義維を陣営に引き込んだ細川なのである。柳本賢治が松井宗信とともに京都の支配権を得た際、義晴方の伊勢貞忠との間で和睦交渉を行ったが、晴元と義維の意向によりその和睦は成らなかった。義維は細川の口車に乗せられたのが実情であったが、和睦派の柳本・松井らは急速にその力を失っていくことになる。その遺志を継いだ秀忠も同様に励むも、和睦締結には程遠い状況が続いていた。


「左様にございまする。しかし、公方様はあまり体調が優れぬと伺い申した。一昨年にはまだ齢二つの菊幢丸様に将軍職を譲ろうとしていたとか。それでは健全な幕府運営などできぬと、六郎様はそれを憂いておりまする」


 事実、一昨年の春先に義晴は体調を崩し、精神的に沈んでいた時期があった。半年を経て体調は回復し、一時は全ての権限を菊幢丸に移譲する考えまで明かしていたが、幕臣の説得により延期されていたのが幸いとなった形である。


「ふん、白々しいな。それでは結局将軍職を義維に譲れと申しているのと同じではないか。我はそれを呑むつもりはないと何度も言うておろう」

「無論、これまでと同じ話ではありませぬ。単に堺公方様に将軍職をお譲りいただくのでは無く、公方様には監視役として共に北嶺御所に座し、菊幢丸様が元服した暁には将軍職を譲る意向にございまする。これは“和解”、双方が妥協できる点を見つける話し合いにございまする」

「お主の話を信じるとして、細川にとってそうする意味がどこにある?」


 義晴は鋭い視線で秀忠の双眸を射抜く。それに狼狽するような男ではなく、秀忠も肝が据わった様子で瞑目すると、今度は柔和に口元を緩めた。


「細川は先の戦で朝敵とされた延暦寺に与し、不名誉にも朝敵に類する者と見なされてしまい申した。その朝廷は現状、北嶺御所を幕府と認めておりまする。これ以上堺公方様を擁立し続けるは、細川が朝廷に逆らい続ける逆賊も同義にございましょう。それを恐れてか、細川の家中は内部対立寸前にまで陥っており、これは細川の内訌を避けるための仕儀にございまする。堺公方様が将軍であれば、たとえ公方様に実権があろうとも、細川が幕府にある程度の影響力を保持していると諸将を騙すことも叶いましょう」

「そのように申しても、細川六郎を再び管領に命じるつもりはない」


 義晴は細川が管領の地位を剥奪されたことに危機感を持っており、ゆくゆくは地位の返還を求めるつもりなのだと考えた。しかし、その予想は的を外れたものであった。


「構いませぬ。此度は汚名返上と家中の統制のため、それだけの話とご承知おき願いまする。某も最初は謀略と疑い申した。しかし、六郎様は幼い次女を六角に人質として預けるとまで申しておりまする」


 管領などもはや名だけの地位であると言わんばかりの即答に、義晴は酷薄に眉を歪める。細川はこれまで友好勢力に根回ししながら作り上げてきた、義晴の対抗となるもう一人の将軍という存在をみすみす手放したのだ。『朝敵』になることをそれほど恐れているのだと、義晴は確信した。


「お主の言葉、偽りはないな?」

「無論にございまする。公方様を欺こうという考えなど、露ほどもございませぬ」

「ならば認めよう。細川の話を呑み込むのはちと癪ではあるがな」


 最後は将軍としての威厳と余裕を見せつつ、義晴は退出を促すのだった。

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