畿内の情勢
加賀百万石という言葉があるが、実際のところ加賀は四十万石程度であり、百万石という言葉は能登と越中を合わせて構成された加賀藩の領土なのだ。
「去年の米の収穫はかなり少なかったと聞いた」
「一昨年に比べればマシではありますが、不作なのは紛れもなき事実ですな」
末松信濃守靱嘉が現実を憂う様子で答える。長年続いた戦乱によって農業の効率性は大きく落ち、にも関わらず年貢は増す一方。そんな状況が大きな隙となり、本願寺の主権簒奪を許してしまった。
その本願寺も一昨年に大小一揆を引き起こした。領土の全域で展開された戦闘によって土地は荒れ果て、去年もその影響を多分に受けて厳しい状況が依然続いていた。
冨樫家の年貢は基本六公四民であるが、戦時など多い時には八公二民で年貢を徴収していたこともあったという。それは民心も離れるわ、と先祖の愚行を嘆きながらも、もうすぐ田植えの季節なので、収穫を増やす方法を模索することにした。
「以前田を見た時はかなり密集して植えられているように見受けられたが、普段からああなのか?」
「左様ですが、何かおかしな点でもございましたか?」
「ふむ、やはり特段植え方を意識しているわけではないのか。田植えの際に苗を縦と横の列を揃え、等間隔で植えれば、格段に生産効率が上がるはずだ」
「それではむしろ収穫量が減ってしまうのではありませぬか?」
一見植える本数が少なくなるため収穫量も減りそうなものだが、日光が稲に当たる面積が増え、風通しも良くなるため、稲穂の生長や穂のなり具合に好影響を与えることが期待でき、一株あたりの実付きが良くなるために収穫量が増えるのだ。
「一度試してみればわかる。それともう一つ。種籾を塩水に付け、沈んだ種籾を抽出してみよ。それだけで良好な生長をする種籾を選び出すことができる」
沈んだ種籾は、種子の比重が大きなものであり、これをするだけで少なくとも一割の収穫量増加を見込めるらしい。
「ふぅむ、正直申しますれば半信半疑にございますが、他ならぬ靖十郎様のお言葉です。指示を出しておきましょう」
「うむ、頼んだ」
農業は国の資本だ。作物が十分に採れなければ、運営に支障をきたすのは必定というもの。これまでの冨樫家のやり方ではダメだ。生産性を上げることができれば、国力も上がる。俺は怪訝そうに眉を寄せる靱嘉を見て、成果を見た時の顔が楽しみだ、と微笑んだ。
「靖十郎様。加賀菊酒の売れ行きは好調にございます。引っ張られて我が商店も盛況にございますれば、感謝に尽きませぬ」
善兵衛が深々と頭を下げる。菊酒は案の定売れに売れた。まず味は他の酒に劣らないどころか、「天下一の美酒」と称賛され、また透明感の強い見た目に欲しがる声が後を立たないという。俺は予想以上の結果に口角を緩ませる。菊酒に冨樫と名を冠することにより、冨樫家の名声も高まった。その冨樫家が懇意にしていると聞くと、善兵衛の実家は恩恵を受けて売り上げが大きく伸びているらしい。
それだけでなく炬燵の抱き合わせ商法のおかげで莫大な利益を生んでおり、石鹸も消耗品であるために変わらず売れているようだ。
「感謝はこちらがせねばらなぬ。商いに疎い私ではなし得なかったことだ」
商人の世界は俺にとって未知の領域だ。いくら新しいものを売っても、売り方を知らなければ利益の幅は狭まる。そういう面で、感謝しないわけにはいかなかった。
「過分なお言葉、光栄にございます」
夏が深まりつつあるからか妙に身体が火照りを帯びて感じ、己の手のひらで何度か煽って風を受ける。僅かに沈黙が走った。
「嬉しいものだ。加賀が豊かになっていくのを見られるのは」
俺はひとりごちる。偽りなき本心だ。一年前には見られなかった光景だ。
「これも次郎様と靖十郎様が成したことにございますぞ」
「いや、お主もそうだが皆の助力がなくてはなし得なかった。それにまだこれは序章に過ぎぬ。畿内の情勢はあまり芳しくないのだろう?」
「畿内の情勢は複雑怪奇になりつつありますな。堺にも戦火が及んだ影響で堺での商いが滞っておりまする。商品はその分を他の地に回しても売れるので大した痛手にはなっておりませぬが」
実質的な畿内の支配者であった細川京兆家の細川晴元は、元々堺公方を打倒する為に本願寺と連携して堺公方を滅亡に追い込んだのだが、仏敵として滅ぼした三好元長の死後も一揆の増長は止まらず、これを脅威に感じた晴元が一向一揆との決別を決意した。この対立が原因で山科本願寺の焼き討ちを引き起こし、証如が大坂に走ることとなったのだ。
当初は細川陣営有利な状況が続いていたが、本願寺は年が明けてから頽勢を一気に翻している。そして一月には本拠の大物城を落とし、二月には堺が陥落した。畿内の拠点を失った晴元は淡路へと渡るまでの劣勢に立たされたが、その後晴元に協力する法華一揆によって局面は再び巻き返したことで、両者の和睦が後の三好長慶である千熊丸によって成された。三好長慶はこの時十二歳に過ぎないが、この時からもう頭角を表していたのだ。この後、史実では父の仇を討つ形で下剋上を敢行し、『日本の副王』と称されるまでに飛躍を遂げる。
「やはり本願寺は脅威だ。加賀の一向一揆が指導者不在であっても蜂起する可能性は否定できない。戦う術を用意せねば、こちらが飲み込まれるだけだ」
俺は意志を固く持ち、悲惨な末路を辿らないために頭を回す。
「一向一揆の力は計り知れませぬな。行動も読めませぬ」
単純な火力を底上げするには鉄砲を買うのが最も効果的な手段だが、残念ながら現時点では鉄砲は伝来していない。鉄砲が伝来するのは天文十三年(1544年)で、普及するのはまだまだ先になる。故に戦力として期待することは現時点ではできないのが実情だ。
一向一揆を排除しない限り、この国に平穏が訪れることは決してない。俺とて多くが百姓の練度の低い軍勢に刃を向けたいわけではない。しかし増長して全国に火の手が上がってしまっては元も子もないのだ。
まずは戦略的拠点に位置付けている鶴来城を早期に完成させたい。冬の間は建設が滞るので、夏から雪が降るまでの間になんとか進捗を図りたいものだ。
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