甲斐訪問①
九月に入り、例年と比べて一際厳しい暑さも、徐々に鳴りを潜めつつあった。
そして収穫の季節を迎えた。「塩水選」と「正条植え」に加えて、踏車の普及で水利の悪い地域にも簡易水路や畝を設けた結果は如実に表れている。元々稲作に適していない土地柄であるため加賀と比べたら規模は大きく落ちるが、以前は田を設けられなかった場所にも水田ができたことにより、その収穫量は目に見えるほど変わっていた。
数字で示すと三〜四割程の増収だろうか。元々が少なかったため相対的な増加量は大きい。伊賀衆の面々も口を揃えて驚嘆の言葉を述べていた。ただ、伊賀一国規模で考えると依然心許ないのも現状だ。厳しくなれば加賀を頼ればいいという考えもあるが、加賀と伊賀は距離が離れており、迅速で緊密な相互補助が難しい。今年はかなり兵糧や銭の消費が激しかったからな。加賀を頼らざるを得なかった。兄二人を頼らず一国でやりくりをする上で、米の収穫もこれ以上の劇的な成果は見込めない。そうなると余った土地で何か他の作物を生産できないかと思った。
しかし先述の通り、伊賀は農作にあまり適さない土地柄で、ジャガイモやサツマイモはこの時代では入手不可能であり、なかなか適性のある作物は見つからない。そこで考えついたのが、葡萄の栽培である。なぜ葡萄を思いついたかというと、三好から譲られた明の密貿易船の積み荷の書物の中に「珍陀酒」の記載があったからだ。三条公頼の翻訳によって葡萄から作られる酒だと分かり、葡萄の栽培という着想に至った。
欧州からシルクロードを経て伝わった葡萄は、甲斐の勝沼に自生する果物で、前世でも国民的な果物の一つだった。ただし、葡萄の作付面積は非常に限定的なもので、交易できるほどの規模にないため、現時点では甲斐より外には広まっていない。
そしてこの時代、日本においては酒自体が米から作る手法以外確立されておらず、ワイン自体は遣唐使や勘合貿易などで大陸から入ってきていて、これが珍陀酒と呼ばれていたのだと、公頼が教えてくれた。珍陀とは「赤ワイン」を指すポルトガル語に由来しているそうだ。ただその数もごく少数なため、嗜好品としてではなく薬用酒として認識されており、入手は困難かつ非常に高価なのが現状であった。
ワインが国内に浸透するまでにはまだ数十年はかかるだろう。史実でワインの存在が広く認識され始めたのは信長の治世になってからだった。
葡萄の栽培が可能だという結論に至ったのは、伊賀と甲斐は気候が似通っているからだ。甲斐は甲府盆地にあり夏は暑く冬は寒い内陸性の気候で、昼夜の寒暖の差が大きい特徴があるため、葡萄の栽培に非常に適している。一方の伊賀も上野盆地にあり、似通った気候となっている。それと葡萄は肥沃な土壌は栽培に不向きで、水捌けの良い土地が適しているという前世の記憶がある。その点でも土の痩せた伊賀は葡萄の栽培が成功する下地があると考えた。
葡萄はビタミンやミネラル、ポリフェノールなどの栄養素が多く含まれているため、そういった意味でも貴重な栄養源になる。
葡萄単体でも希少な作物ということで価値は十分にあるが、やはり一番の目玉はワインを作れるという点だろう。ワインの原材料となる葡萄はアルコール発酵の元となるブドウ糖を豊富に含有しており、自然に酒に変化するために大きな手間をかけることなくワインに仕上げることができる。具体的には葡萄の果実を房ごと潰し、その果汁を木樽に入れておくと、葡萄の果皮についた酵母菌によって自然発酵するという仕組みで、日本酒や焼酎に比べても格段に作り易いものだ。
もしワインを作ることができれば、他に競合もいないため希少価値は高まるため、加賀の菊酒と並ぶ名産品として酒界の双璧を成す存在になるかもしれない。
そんな考えも苗木や種が手に入らなければ取らぬ狸の皮算用に過ぎないので、俺は思い切って甲斐に出向くことにした。ただ葡萄を栽培するだけならば配下の伊賀衆に頼んで苗木や種だけ持ち帰ってもらうだけでいい。わざわざ甲斐に向かうのは、三条公頼の娘である綾姫(三条の方)が甲斐に輿入れする予定を控えていたからだ。
公頼は三月に武田家の嫡男・武田晴信の元服祝いとともに「従五位下・大膳大夫」に叙任するため、勅使として甲斐に赴いていた。その時に公頼が綾姫を嫁がせる縁談話を当主の武田信虎と合意したらしい。婚礼は七月に行われる予定だったのだが、天文法華の乱の影響により延期となっていたのだ。
輿入れの一行を護衛しながら同行する形で甲斐に向かうなら、甲斐や駿河の近況を知ることや、依然不足する人材を補填する目的も果たせそうなので、自ら足を運ぶ方が良いと考えた。今は農繁期だし、冬の伊賀は気候も厳しくそうそう攻めてはこられない。比叡山への遠征の際と同じように伊賀衆に国を固めてもらえれば問題はないだろう。大湊から海路で駿河へと向かう旅程なので、長くても往復で二ヶ月はかからないと見込んでいる。
「甲斐、にございますか?」
「そうだ」
稍が突然挙がった名前に小首を傾げる。無論知らないというわけではなく、甲斐はわざわざ足を運ぶような土地ではないのでは?といった疑問だろう。
「ブドウという果物を伊賀で育てたくてな。それが甲斐で生えているというのだ。もうすぐ稍の妹の綾姫が武田家に輿入れするだろう? その護衛も兼ねて甲斐へ行こうかと思ってな」
「なるほど」
納得したようで小刻みに首を縦に振っている。
「それに富士の山も稍に見せたいしな」
「えっ、また連れて行って下さるのですか?」
「勿論だ」
富士山は一度見せたいと思っていた。何より日本人の誰もが知っている世界遺産だからな。だが、大湊から船で駿河に向かう予定だと告げると、稍はあからさまに苦い顔をした。船にはいい思い出がないのだろうな。今回は太平洋をしっかり航行するので、船の揺れも未知数だ。俺は同情するように薄く笑った。
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