比叡山焼き討ち③

天文5年(1536年)8月 山城国京 御所


「比叡山延暦寺を壊滅させましてございまする」


 八瀬から兵を退いた俺は、帰還の前に帝の無事を確認するために御所へと立ち寄っていた。御所は運良く戦火を逃れ、そのままの姿で残っている。


「朕の頼みに上々の結果で応えた此度の伊賀守の働きは賞賛に値しよう。何か褒美として与えられたら良いのだがな……」


 帝の歯切れは悪かった。この天文法華の乱によって、朝廷も大きな痛手を負った。ただでさえあまり裕福ではなかったのに、一般庶民に施しを授けるなど身を削っている。朝廷保有の財産もいくつか売りに出したらしい。それを考えれば、さらに身を削れというのも酷な話であった。そもそも俺は褒美など望んでいないし、この行動の根幹は三条公頼を失って悲しむ稍を万が一にも見たくなかったからである。賞賛を受ける謂れなどないのだ。


「いえ、京を守る事は朝廷の臣として当然のことにございまする。帝のご信頼に応えることが出来まして、臣は無上の喜びに存じまする」

「そう申すと思うておった。だが忠臣の功に何も報いぬわけにはゆかぬ。ゆえに伊賀守を兼務する形で従四位下・左近衛権中将を授けようと思う」

「左近衛権中将にございますか?」


 従五位下から従四位下となれば大躍進となるが……。伊賀の冨樫家は伊賀国司として実質的に加賀の冨樫本家とは切り離された分家になっている。長幼の序というのはもう通じないだろう。公頼にも無理があると笑われた。


「無論伊賀守が官位に執着しておらぬことは存じておる。それでも箔がつくのも確かだ。邪魔になることはないであろう」

「されど左近衛少将を飛ばして中将とは、あまりに畏れ多いことと存じまする」


 近衛府は禁裏を警護する役目を担う要職であり、六衛府の中では最も高い位にあるが、時代の潮流によって朝廷の内情も大きく変化し、高位の役職に就く者にとっては名誉職となっていた。伊賀守と同様に、京に居らずとも務められる役職を与えようとしているのだろうな。


 そのため、近衛少将の官位は武家の人間には人気となっていたらしい。かの上杉謙信も左近衛権少将に任命された記憶がある。名誉職とは言っても、この叙任は「帝や京の町を守る」という大義名分を得ることと同義であり、普段は京に常駐していない身であっても、朝廷の危急存亡の時には京に駆けつけ、帝を救けることができるという、庇護を期待しての意味もあるのだろう。


 法華宗徒は今回の戦によって勢威を著しく翳らせ、とてもではないが京の自治権を保持できる状況ではなくなっている。幕府も近江に逃れた。つまるところ、京は権力者がいない空白地帯と化したと言うわけである。比叡山に与した細川も、この戦で大きな痛手を負った上に管領職まで罷免された。これ以上余計なことをすれば朝敵認定される恐れがあるため、熱りが冷めるまでは京に手を出さないだろう。


「本来はそうだが、先例はある。伊賀守と縁戚にある三条権中納言は左近衛権少将を経ずに左近衛権中将になっておる」

「……」

「実はの、三条権中納言からも伊賀に下向する前に、其方の功成名遂の暁には相応の官位を授けるべきと進言があったのじゃ」

 

 今回の比叡山焼き討ちは俺にとっては然程難しい戦いにはならなかった。坂本を攻めた六角の存在あってこそだろう。朝廷としても六角には後日改めて褒美を授けたいとの思し召しだった。


「亜相様が、でございますか?」

「朕もその通りだと思うた。其方は近衛の役目を任せられるほどの功を挙げたのだ。朕の信頼の証じゃ」


 やはり公頼の前では長幼の序が建前でしかないことは筒抜けだったか。根回しが入念なのは流石と言うべきかな。


「誠に勿体無き御言葉を頂き、身に余る光栄に存じまする。左近衛権中将、謹んで拝任致しまする」

「うむ」


 帝からここまで信頼されて辞退なんてできるはずもない。帝は満足げに首肯した。


「しかし比叡山は滅びたが、京の治安は過去類を見ぬ程に悪化し、応仁の乱以上の荒廃を迎えた。由々しき事態よの」


 比叡山延暦寺は京の鬼門、即ち北東にあるために、京を守護する目的で創建されたものだ。その責務を全うするどころか、それが不可能であると証明してしまったわけだ。帝の落胆と失望は相当なものだろう。


「畏れながら、臣に一つ考えがございます」

「考えとな? 申してみよ」

「比叡山延暦寺は此度の焼き討ちによって滅亡致しました。それゆえに、これからは京の北東を守る者がいない状況になりましょう」

「ふむ、鬼門の守護がなくなるのは拙いの」


 比叡山はこれまで京を守る役目を全うしていなかったとはいえ、その存在によって陰陽道において忌み嫌われる鬼門からの外敵の侵入を抑えていたと、この時代では信じられている。


「そこで武門の棟梁たる征夷大将軍の武により、京の鬼門を守るべきかと存じまする」

「幕府を比叡山に置くということか?」

「左様にございまする。このまま比叡山を放置していれば、第二の延暦寺が現れかねないと愚考致しまする」


 将来の恩赦により比叡山に延暦寺が再建されるのを阻止することも狙いだが、将軍は未だ侮れない権威を保持している。京の鬼門を守るという建前においては、これ以上ない存在になるはずだ。流石に将軍の住む比叡山を攻めようなどという不届き者の大名はそうそう現れないだろう。そういう意味では延暦寺よりも相応しい仕置だと言える。


「なるほど、有り体に言えば比叡山に公方を押し込めるということだな?」


 帝が少し声を潜めて言うと、俺は御供衆という身分を持つ手前、明確な反応を避け苦笑いで応えた。帝の指摘のとおり、京の鬼門を守る云々は建前に過ぎない。将軍と幕臣をまとめて押し込んで厄介払いするのが真の目的である。


 比叡山は京の隣で、かつて義晴が亡命した朽木谷にも程近いのが幕府にとって何よりの利点だろう。さらに、延暦寺の寺領だった坂本を幕府の御料地とすれば幕府の厳しい懐も少しは潤うだろう。まあ坂本は全焼してしまい、かつての価値は消滅しているが。


「比叡山に建てる御所を『北嶺御所』と称してはいかがでしょうか。畏れながらその許可を頂きたく存じまする」


 俺は平伏して返答を待った。延暦寺は大和の興福寺を南都と呼ぶのに対して北嶺と呼ばれていた。その別称を頭につけて、『北嶺御所』というわけである。


「尤もな仕置じゃ。北嶺御所、認めようではないか。任せて良いな?」

「はっ、有り難き御言葉、恐悦至極に存じまする」


 北嶺御所の建設費用は六角が負担する予定だ。桑実寺に居座ったままでは目障りとなる幕府を比叡山に押し込むことについては、既に定頼と話をつけてある。


「此度の働き、誠に見事であった。正式な左近衛権中将への叙任は後日と致す故、下がって良いぞ」

「はっ、失礼致しまする」


 俺は無礼のないよう所作に細心の注意を払い、謁見を終えた。正直、冷や汗が止まらなかった。やはり帝は普通の人間とは明らかに異なるカリスマの持ち主で威厳のあるオーラを纏っている。


 かくして俺は伊賀守とともに従四位下・左近衛権中将を兼務する形となる。その後比叡山攻めに参加した全軍を率い、京を後にした。

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