比叡山焼き討ち②
比叡山東麓の日吉神社が焼き払われ、その炎は比叡山に延焼し始めた。定頼はその様子を黙って見ているだけではなく、追撃するように比叡山に向かって火矢を放つと、その炎は木々に燃え移って瞬く間に炎上し始める。
炎は陽が沈んでも消える様子は微塵もなく、むしろその規模を拡大し、比叡山は紅蓮の炎によって彩られ、昼間のように山麓を明るく照らした。
「皆の者、突撃せよー!!」
沓澤恒長の喊声が西の山麓の八瀬に木霊する。山頂の延暦寺にまで火の粉が舞い始めるに至ると、延暦寺門徒は一目散で山を降り京に逃げようと試みた。隊列すら成していないその逃亡兵は武器を構えて、正面の沓澤玄蕃助の率いる部隊をどうにかして押し退けようと突進してきた。
しかし冷静さを著しく欠いていたために、接敵した目前の軍勢に夢中になっていたこと、そして陽が沈み敵を視認しにくくなっていたことから、潜んでいた佐々吉兵衛の軍勢に気付くことが出来なかった。逃亡しか考えていなかった延暦寺門徒は、多くが重荷になる甲冑を身につけてはおらず、攻撃から身を守る術が殆どない状態である。中には武器すら持っておらず着の身着のまま逃げ出した僧もおり、もはや一方的な殺戮と化した。
冨樫軍の猛攻に耐えかねて中には高野川に飛び込んで難を逃れようと試みた者がいたが、夜の川は言うまでもなく危険が多く潜んでいる。身重な甲冑を身に付けた者は言うまでもなく、身軽な僧兵も視界の悪い漆黒の川に飲み込まれて悲鳴が至るところから響き渡っていた。
阿鼻叫喚、その言葉があてはまる惨状が広がっていた。それを見た後方の僧兵は顔を真っ青に染めて、煌々と燃え盛る比叡山方面へと踵を返していくが、当然ながら比叡山と運命を共にしようなどという妄信的な考えからではない。険しい山の峰を伝って南北に逃れようとしていたのだ。火事場の馬鹿力と言うべきか、身のこなしは軽やかに見えるものの、待ち構えていた伊賀衆には遠く及ばなかった。
「卑怯者め! 地獄に堕ちろ!」
半蔵や磐琇に捕らえられた僧兵は口々に口を揃えてそう言い放つ。長年忍従を貫いてきた伊賀の素破にそのような品位の欠片も感じられない口撃が通用するはずもなく、淡々と首を刎ねられていった。
その中には天台座主である覚胤法親王も含まれており、「皇族出身の余を殺すなど、天罰が下るぞ」と脅されたものの、半蔵は冷静に「皇族ならば京の町を焼く事も許されるのですかな? 朝敵と見做される皇族など、聞いたこともございませぬ故、それは嘘ではありませぬかな?」と嘲笑するように返した。覚胤法親王の瞳には深い憎悪が孕んでいたが、半蔵は追い討ちを加えるように自らの愚行が招いたものだと糾弾し、直後に座主の着衣に火を付けた。
あくまで覚胤法親王の死は『不幸な出来事』であり、特定の誰かの手で弑逆されたのではなく、比叡山の炎上の煙に巻かれて焼け死んだということにした。半蔵も自らを覚胤法親王と名乗った男を認知しながらも、嘘をついているとして誤魔化している。帝が「皇族だからこそ許す訳にはゆかぬ」と言ったことは、皇族の殺害を暗に黙認する意味も含まれていると察知した靖十郎は、帝の真意を汲み取り、生かして捕らえて帝に厄介事を押し付けまいと汚れ仕事を引き受けたのだった。
「又助、受け入れられぬか?」
小姓として、そして戦場を見せるために靖十郎が連れてきていた又助は、夜空を赤く照らして比叡山が燃え盛る光景に釘付けになっていた。ショックというよりは現実として受け止めきれていないという面持ちである。
「……いえ、当然の報いかと思います」
「正直に申せ」
「……自分がどう思うべきなのか、わからぬのです。仮にも寺の坊主として育ててもらった恩義がありました。総本山である比叡山が焼かれている光景は、正直に申しますと愉快ではありませぬ。ですが、靖十郎様に拾っていただいた御恩もございます。これを正しいと思わないといけない、そんな気持ちが心にあるのも確かなのです」
又助は感情の板挟みに遭っている。自分の感情にどう折り合いをつけるべきか、思い悩んでいた。
「心の中で何を思おうと、それはお主の感情だ。それを否定するつもりは毛頭ない。だがな、私はこれを間違ったことだとは思うておらぬ。いや、むしろ正しいことだと思うておる」
「……はい」
「この世は荒れ果てておる。仏の教えとは乱れた世の民の心に安らぎや平穏をもたらすべき貴重なものだ。それを否定するつもりはない。だがその仏の代弁者たる僧侶が武器を携えて無辜の民を襲っては、本末転倒であろう。私には本分を忘れて世を掻き乱す奴らが許せないのだ」
靖十郎は又助と目を合わせることなく、目の前の比叡山を見つめながら告げる。その責任を自分一人で背負おうというような、そんな気概を又助は微かに感じ取る。
(靖十郎様は強靭な精神を備えておられる。このような御方こそ、国をも背負っていくのかもしれぬ。その雄飛を最も近くで見られるかもしれぬというのは、何という幸運だろうか。靖十郎様の一挙一動を見逃さず、書に記して後世に残す。それこそが我が使命なのやもしれぬ。そうすれば此度の所業も後世の者が評価してくれるであろう)
既に世の情勢を俯瞰する眼を持ち、成熟した精神を醸成しつつあった又助は、そんなことを思った。
「また伊賀守殿に借りを作ってしまったようだな」
三好伊賀守利長は嘆息する。靖十郎の支援によって一向一揆を撃退したのち、摂津国越水城に身を据えていた。利長の父・元長が熱心な法華宗徒であったことから影響を受けており、法華宗に融和的な姿勢を取っていた。利長の右筆である松永彦兵衛久秀も法華宗徒であり、三好家中に法華宗徒は多い。だからこそ、法華宗徒の仇である延暦寺を焼き討ちしてくれた泰俊に対して、素直に感謝の言葉を述べずにはいられなかった。
「殿の命を救っただけでなく、短い間に大きな戦功をいくつも挙げられ、もはや名将かと。敵対したくはありませぬな」
利長の傅役であり側近の篠原長門守長政が冷静に頷いた。利長も同意の表情で応える。
「一向一揆も叡山の焼き討ちには度肝を抜かれたようだ。叡山から援兵の要請があったと聞いたが、断って良かったとさぞや安堵しておるであろうな」
「いえ、今度一向一揆を起こせば、次に朝敵とされるのは自分たちではないかと恐れおののいておるかと存じまする」
久秀の言葉に、利長は愉快げに微笑を浮かべた。越水城から石山本願寺は非常に近く、三好は一向一揆の動きを常に注視している。
「しかし京の法華宗徒は壊滅的な被害を被り申した。二十一本山も殆どが焼失したと」
「忌むべき所業だ。叡山を焼かれたのは天罰であろうな。だがそこまで悲観していないのも事実だ」
法華宗こそ信仰していながらも、利長自身京での武装については快く思っていなかった。利長は武装した僧兵が率いる一向一揆を憎んでおり、快く思うはずもない。
利長が憂慮していたのは一般の法華宗徒であり、その多くが朝廷の庇護によって辛くも難を逃れることができていた。延暦寺との泥沼の戦いで命を散らしたのは主に武装した門徒集団である。利長はこの天文法華の乱で過激派が一掃されたことにより、京が法華宗の純粋な信仰の場になることを期待していた。
「いずれにせよ伊賀守殿には文を送らねばならぬな。彦兵衛、代筆を頼むぞ」
「はっ」
利長は部屋の隅に控えていた松永久秀にそう告げると、左手で脇差を抱えて部屋を退出していった。
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