比叡山焼き討ち①

天文5年(1536年)7月 近江国坂本


「坂本の僧侶達は挙って矢銭の提供を申し出てきました」


 伝令の声が響き渡る。床几を囲うように六角の諸将が集っていた。まだ朝だと言うのに八月下旬の蒸し暑さは身体に堪える。陽射しを遮るものが何一つない中で、汗は止めどなく流れ出していた。


「坊主どもは焦っている。坂本を包囲されたと聞いて慌てて比叡山に撤退を始めたが、態勢を整えるには時間が足りぬ」


 京の町を舞台とした戦いでは終始比叡山延暦寺が攻めあぐねていたという印象で、結局は法華宗を壊滅させるまでには至らず、多くの僧兵を失った比叡山にとっては相当な痛手であろう。当初延暦寺単体で二万を超える大軍を率いていたが、死闘によって一万程に減っている。比べて法華宗の被害はさらに甚大だった。日蓮宗二十一本山の殆どを焼かれ、とても自治できる状況にはなくなっている。細川も比叡山に多くの兵を送り込んでいたことでかなりの痛手を負っており、比叡山の撤退と同時に兵を引かせ、京は空白地帯と化した。


「戦々恐々としておりましょうな。坂本の処遇、如何なさいますか」

「当初の方針で変わらぬ。坂本は例外にはせず、焼き払う。これは決定事項だ」


 定頼の毅然とした容赦ない姿勢に固唾を飲む。定頼は後世でこそあまり目立たない人物だったが、戦国大名で初めて楽市楽座を始めたり、観音寺城に曲輪を設けて家臣がすぐに集結する体制を整えたりしたことなどからも分かるように、かなり先進的、革新的な思考を持っていると感じる。比叡山焼き討ちへの忌避感や、一向一揆の弾圧に抵抗感をあまり見せなかったのもその一例だろう。


 織田信長と違う点といえば、野心がやや乏しく、幕府体制を維持して、その上で実権を握り国をまとめ上げようとした点だろうか。信長や三好長慶が下剋上という考えを少なからず抱えていた一方で、六角はあくまで幕府を庇護する立場にあり続けようとしたのだ。それが六角の飛躍する道筋を狭めたのだと思う。まあ長慶は復讐心という巨大な感情を養分にして細川に下剋上したから、相当歪んでいるがな。


「僧侶の中には降伏を申し出る者もおりましたが」

「坊主どもの降伏は認めぬ。比叡山に属さぬ町人のみ退去を認める方針を変えることはない」


 かなり厳しい対応だが、これが京を燃やし尽くした天罰であり、そのような所業を行ったにも関わらず、坂本でのうのうと特権を享受し、酒と女に溺れる延暦寺門徒を断固として許さないというのが定頼の姿勢だった。


「町人の殆どは勧告に従い退去したようにございます」

「ならば容赦は要らぬな。京から戻った僧兵が坂本の防衛に来る前に決着を付ける。火を放つぞ」

「はっ!」

「伊賀守殿も手筈通り頼む」

「承知致しました」


 俺は坂本の焼き討ちを六角に任せ、一足先に六角の本陣を退出した。







「火を放て! 一兵たりとも逃すな!」


 焼き討ちの指揮を任された後藤但馬守秀勝の容赦ない一声が木霊する。背後に聳える比叡山の門前町に放たれた火は覚束ない種火から一気に炎上し、やがて紅蓮の炎となって人家を襲った。


「逃げろ! 六角が火を放ったぞ!」


 まさか本当に焼かれるとは思っていなかったのか、差し迫る轍鮒の急に右往左往する僧兵の姿が目立った。そして一部は町の外に出ようと試みるも、二万の軍勢で包囲している以上逃げ道はなく、無惨にも命を散らしていく。捕らえられた僧兵の多くは「降伏すると言ったのに、それを無視して火を放つなど人間のやる所業ではない」などと叫んでいたが、取り合うことなく首を刎ねられていた。


 やがて比叡山の高僧が『畏れ多くも仏が鎮座する比叡山の門前町に火を放つとは、仏罰が下るぞ! 貴様らは仏敵だ』と丁寧にも書状に認めるなど、最初は抵抗する姿勢を見せた坂本の僧兵だったが、それに対して『比叡山は畏れ多くも帝が鎮座する京を焼き尽くした。仏罰が下るならば其方だ。それに我らは帝から直々に比叡山延暦寺の討伐を命じられた身。その我らを仏敵扱いすることは、帝を仏敵と名指しするも同然である』と理路整然と返すと押し黙った。


 そして蟻の這い出る隙間のない包囲陣と燃え盛る街並み、そして町から出ようとして根切りにされていく僧兵らを目にし、慌てて比叡山へと登っていった。定頼は躊躇なく山麓の日吉大社も焼き払い、比叡山の麓は火の海と化していく。しかし、その時点で死者は殆どいなかった。坂本の町を焼き、日吉大社が炎上する様子を比叡山の僧侶に見せるために、わざと初動の火矢を街の中心から逸らしたのだ。猶予を与えたのではない。六角が本気であることを見せつける意図だった。


 これによって六角の本気を悟った比叡山は息を潜めるように異様なまでの沈黙に覆われた。


 






 冨樫軍の構成は、常備兵の八百、銭で雇った徴集兵一千であり、それに加えて延暦寺勢の撤退により役目を失っていた御所の守備兵二百を呼び寄せた計二千であった。定頼と戦略を練った結果、別働隊として正面から対する六角本隊とは別に軍を率いることになっていた。


 そして山科から洛中に入った冨樫軍は御所を経由し、夕方には比叡山の西側の入口である八瀬に本陣を構えていた。


「半蔵、趙犀庵」

「「はっ」」

「伊賀衆は山中での戦いを得意としていると聞いた」

「左様にございます。我らは外敵から伊賀を守るため、山中であらゆる手を尽くして戦って参りました」


 半蔵が真剣な面持ちを浮かべながら、自信ありげな口調で応える。藤林長門守には坪内綜讃や槻橋氏泰とともに国司不在の伊賀の統治を任せ、伊賀衆の統制を命じてある。


「では二人に四百ずつ率いてもらう。半蔵には比叡山の北に、趙犀庵には南の山中に忍び、逃亡を試みる坊主どもを一網打尽にするのだ。六角の本隊が比叡山に火を放てば、戦えぬ坊主どもはたちまち逃げようとする筈だ」

「承知致しました。ご期待に添えるよう、責務を全ういたしまする」


 田屋磐琇が深く首を垂れる。表には出していないが、並々ならぬ熱意がそこには顕れていた。


「うむ、頼んだ。そして沓澤玄蕃助、佐々吉兵衛、柴田権六」

「「「はっ」」」

「坊主の多くはこの八瀬に下りてくる筈だ。それをこの本隊で叩く。三人にはその指揮を頼む」

「「承知致しました」」


 東側の入口が六角本隊で閉ざされている以上、西の八瀬を通るか、険しい峰を伝って北や南に逃れる他ない。こうして比叡山の包囲体制は整ったのだった。


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