甲斐訪問②
意外なことに甲斐への旅には三条公頼も同行することになった。輿入れは基本的に姫と侍女に小者や僅かな護衛だけで送り出し、両親は同行しないのだが、俺が同行すると聞いて気が変わったようだ。俺は平時より伊賀衆に護衛を任せているため、一行の道中での安全が保証されるからという理由もあるのだろうが、実際のところは娘との別れを惜しんだ親心なのだろうな。
東には六角の敵対勢力はないので、道中は伊賀衆に周囲の警戒を任せていれば危険はない。一番心配していた船旅も海が穏やかだったおかげでなんとか乗り切り、駿河に上陸し北上する道中も問題なく通過していった。稍と綾姫(三条の方)は稍が綾姫の誕生によって六角家に猶子として送られることになったので、仲はあまり良くないのではないかと勝手に考えていたが、そんなことは微塵もなく、綾姫は生まれてから五年ほどの幼少期に稍と遊んでもらっていたということで、非常に仲睦まじい姉妹だと側から見ていても感じた。
綾姫も緊張気味だったようだが、経験者である稍の言葉もあってリラックスできているようだった。
そんなこんなで甲府の躑躅ヶ崎館に到着すると、
「遠路遥々ようこそ甲府へおいでくださり申した」
と俺たち一行を出迎えたのは武田晴信の傅役を務める板垣駿河守信方だった。躑躅ヶ崎館では既に婚礼の準備は進んでいてすぐに一連の行事が進められることとなる。綾姫は婚礼を目前にして緊張でガチガチになっていたが、稍の顔を見てホッとしていた。姉妹愛だな。
「よもや冨樫伊賀守殿、いや左近衛権中将殿に婚礼を祝っていただけるとは、望外の喜びにござる」
「いえ私のことは伊賀守とお呼び下され」
冷や汗が背中を伝う。目の前にいるのは武田家当主・武田陸奥守信虎である。こうなる可能性は勿論念頭にあったが、当初は武田の内情に首を突っ込むつもりは毛頭なかったので、公頼の関係者として婚礼に出席してそのまま退散するつもりだった。
婚礼の末席で息を潜めるように参加していた俺だが、新婦側の代表である三条公頼に手招きされると、流れるように別室で簡易な会談が取り付けられたわけである。
「いやいや、此方こそ名乗りもせず失礼致し申した。亜相様、私は婚礼を見るだけで十分だと申したではありませんか」
「ほほ、そう申すな。自慢の息子を陸奥守殿に見せたかったのよ。武田家と誼を通じるには又とない機会ではないか。ここで何もせず帰るのもつまらぬであろう?」
公頼は愉快げに笑う。元々俺の話など聞くつもりはなかったのだろう。
「ふふ、亜相様と伊賀守殿は真の親子のようだ。儂など血の繋がる息子とも碌に心が通わぬというのに、羨ましい限りだ」
信虎は豪胆な見た目からは想像もつかないような自嘲気味な笑みを見せる。本来なら晴信もこの席にいても良さそうなものだが、さすがに新郎なので祝宴から外せなかったのだろう。
「陸奥守殿は大膳大夫殿を疎んでおられるのですかな?」
「いや、そうではない、などと申しても真実味はないであろうな。儂としては次郎と平等に接しているつもりなのだが、どうも太郎はそうは思わぬらしい」
苦笑いを浮かべる信虎に、俺は武田の内情に関与しないという方針を改めて向き直る。
「余所者が申していいものかは分かりませぬが、今の大膳大夫殿をよく気にかけるようにされるべきでしょう。大膳大夫殿は陸奥守殿に似て英傑の相を持つ御方とお見受けしました。それ故に陸奥守殿は内心で大膳大夫殿の英才を不気味に感じておられるのではないですかな?」
婚礼で見た晴信はまさに甲斐の虎、というほどではなく、活溌豪宕なイメージとは裏腹に、剛毅で智略が窺える冷静な人物だった。外の人間に向けてわざとそう見せているだけかもしれないが、少なくとも荒々しい印象はあまり感じられなかった。一つ印象に残ったものといえば、不気味なオーラだろうか。虚というわけではないが、どこかスイッチを間違えれば危険な方向に突き進みそうな不安定さを持っているように見えた。
晴信は前世の日本でもトップ五に入るくらいの有名武将であり、その勇猛かつ容赦ない苛烈な性格は広く知られていたが、この不気味さが信虎の愛情を信繁に傾斜させたのだろうな。
「ほう、なにゆえそう思われるのですかな?」
「ただの直感にございます。初対面で何が分かるかとお思いでしょう。されど、いささかご無礼ではございますが、どうかご寛恕いただき、ここは話半分にお聞きくだされ」
「……どのような言葉であろうと受け止めましょう」
部屋の空気が一気に引き締まる。信虎は前のめりだった。剣呑な表情に少し腰が引けそうになる。
「このままでは陸奥守殿は大膳大夫殿と将来袂を分かつことになりかねないと存じます。単なる親子の諍いでは留まりませぬ。大膳大夫殿はまだ若く、心が不安定にござる。親から認められぬ苦しみに堪え、不安定な状態に必ずや付け込む者が現れましょう。隠居や追放に追い込まれるのならまだマシですが、最悪の場合は大膳大夫殿が陸奥守殿に反旗を翻し、甲斐国が内訌となるやもしれませぬ」
「伊賀守殿、祝いの席にはちと似合わぬ話ではないか」
公頼から諌めるような声が挙がるが、目配せして制止すると、難しい顔で黙り込む信虎に続けて告げる。
「私が申し上げたいのは駿河での花倉の乱が決して他人事ではないということにございます。これ以上は申すのは差し控えますが、心の隅にでも置いていただけると幸いかと存じまする」
今年に起こった今川家の家督を巡った内訌である花倉の乱のように、二心を抱く者が謀反を起こさないよう家中を統制すべき、という意図は伝わっただろう。信虎は自分の中に溶け込ませるように頷いている。
俺が容赦なくこう告げたのは、晴信が信虎を駿河に追放した史実があるからだ。晴信は五年後の天文十年(一五四一年)に信虎を追放したわけだが、これには信虎が武田家を従来の守護大名から戦国大名へと脱皮させようと強力な中央集権化を目論み、性急な改革を断行したことが背景にある。これに対して既得権益を奪われまいと反対していた晴信の傅役の板垣信方や甘利虎泰ら譜代の重臣が、信虎と不仲であった晴信を擁立してクーデターを起こしたわけだ。反対派にすれば晴信は傀儡にして実権を握るには格好の主君に見えたのだろう。実際、史実で晴信が飛躍したのは上田原の戦いで板垣信方や甘利虎泰が戦死した後からだ。
信虎と晴信の仲が良ければ反対派は蜂起しなかったとも言い切れないので、やはり武田家にとって家中の統制は急務だろうな。信虎は先を見過ぎたことで足元の注視を怠っていたのだろう。俺の助言のせいで反対派だけでなく、晴信まで粛清されることになるかもしれないが、まあその時は信繁が後を継ぐから問題はないだろう。
「金言にござるな。我が心に重く留めておきましょう。太郎と真摯に向き合うことを怠っていたのは紛れもない事実ゆえ、今一度己を見つめ直す機会になり申した。感謝致す」
明らかに目つきが変わったのが分かる。心を入れ替えたというか、目指すべき方向を見定めたというか。自分の弱みを自覚できたのだろう。だが、こうして面と向かって感謝されると、背中がむず痒く感じてしまう。
「いやいや、私は何もしておりませぬ。この忠言が少しでも陸奥守殿の御役に立ち、武田家が安泰となれば、何より喜ばしい限りにございます」
「かたじけない。此度の出会い、感謝せねばならぬな」
信虎は心底感謝するように、重みのある口調で俺に告げた。
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