真夏の祥雲

「驚いたの」


 三条公頼が定頼の決断に否を示すことは一切なく、やや平坦な口ぶりであった。口で発した驚きの反応とは裏腹に、内心との温度差が濃く醸し出されていた。


「私も驚き申した。てっきり弟かそれに準ずる六角の血縁者が後継者になると思うておりましたが」

「それもそうだが、麿が一番驚いたのは弾正少弼が四郎を廃嫡にしたことだ。麿は四郎が幼い頃の二人を見る機会が多かったからの。麿の目から見ても弾正少弼がとりわけ愛情を注いでおったのは確かだった」

「厳しさを帯びた愛情が歪んだ形で四郎殿に吸収されたのでしょうな。私を褒め称える父の姿を見て、自分の不遇を過度に感じてしまったと」

「弾正少弼は天下に名高き男だが、昔から身内には甘いところがあった。仏門に入っていたことが影響しておるのかもしれぬが、敬愛する兄を早くに亡くしたことが大きかったように麿は思う。此度の北伊勢出兵も本来ならば四郎が率いて戦功を挙げさせるべきだったのだ。それをせなんだのは、過保護故と言うべきか。まあ本心は麿とて預かり知らぬところではあるがな」


 定頼は兄が嫡男を儲けることなく若くして世を去ったことで、還俗して家督を継がざるを得なかった。その結果として六角を飛躍させ、御家にとっては吉となった訳だが、定頼は野心が然程強くはなく、史実では幕府の実力者に留まっている。六角の大きな身代をまとめるために積極的な外征方針を取っているが、定頼個人は保守的な思考を持っていた。それが顕著に表れていたのが、義賢への甘さだ。義賢以外に男子を儲けなかったことが、その甘さに拍車を掛けていた。


「流石に事ここに至っては許す訳にも行かなんだのでしょう。これ以上我儘を許しては家中に示しがつきませぬゆえ」


 しんみりとした空気が漂う。義賢の叛乱は六角家を崩壊させかねない大事件である。それでも廃嫡しない可能性を考えていた公頼を見ると、靖十郎は定頼に対する罪悪感から僅かに胸の痛みを感じた。


「こればかりは致し方あるまい。ただお主を六角家の次期当主に、というのは十分あり得る話だと思うておった」

「はっ? 亜相様もですか?」

「うむ。まあ麿がそれを望んでいた、というのもあるがな。贔屓目に見ずともお主には六角家当主に相応しい器がある。伊賀を奪取したのもそうだが、壬生野を、伊賀をこれほどまでに見事に治めて見せた。極め付けには長野を臣従させ、明らかな不利を覆して北畠を打ち破った。四郎が叛旗を翻した以上、水面下でお主を六角家当主に望む声は出ていたであろうな。四郎の未熟さは六角家中の不安の種でもあったゆえな」


 三条家の血を引く存在を六角家の当主に、という思いは公頼にとっての悲願だった。妹を先代の六角氏綱の側室に送り込んだあたりからも、その思いは窺える。結局、男子を儲けることなく氏綱が死去したのでそれが叶うことはなかったが。


「畏れ多いこととは存じますが、こうなった以上、六角家嫡男としての自覚を持って精進致しまする」


 靖十郎が神妙に告げると、公頼は薄く笑みを浮かべて「うむ」と満足げに頷いた。


「しかしよもや現実になるとは思わなんだ。今日はめでたいわ。あとはお主に男子が生まれてくれれば文句はないのだがな」


 和やかな空気は、切羽詰まった今の状況には全く似合わぬものだった。しかし公頼の言葉が引き金になったのだろうか。廊下を走る慌ただしい足音が近づいてきたと思うと、突然甲高い声が耳を劈いた。


「稍様が無事、出産なされました! 男の子にございまする!」

「でかした!」


 公頼が真っ先に反応すると、少し遅れて靖十郎は拳を握った。年甲斐もなく俊敏な動きで侍女を急かす公頼に続いて稍の待つ部屋へと向かう。


「稍、よく頑張ったな」


 稍は長時間の戦いを終え、すやすやと寝息を立てていた。靖十郎は産後の身体に差し障りのないよう努めて穏和に、声のトーンを抑えて労う。


 靖十郎が視線を横にやると、公頼が自らの人差し指をか弱い力で握る赤子を前に、今にも溶け出しそうな柔らかい笑みを浮かべていた。


「無事生まれたようだな。加えて男児とも聞いた」


 そこに額に汗を滲ませた定頼が、肩で息をしながらやってくる。出陣を控えた忙しい時ではあったが、報せを聞いて飛んで来たのだろう。


「はい、稍がよく頑張ってくれました」

「これで当家も更に団結するというものよ。何せ六角嫡流の血を受け継ぐ待望の男児が生まれたのだ。もはや靖十郎が次期当主となるのに異を唱える者など出ぬであろう」


 六角家としては窮地に立たされている現状でありながら、定頼の表情には一切の曇りが窺えなかった。


「養父上の子として、そして六角の嫡男としてその名に恥じぬよう、死力を以て戦いまする」

「頼もしいものだ。一刻の余裕もないはずなのに、今の心中はやけに落ち着いておる。お主が味方にいるおかげやもしれぬな」

「勝つ以外の選択肢はありませぬからな」


 定頼にとっても、靖十郎にとっても、この戦いに負けという未来は存在し得なかった。身内の恥を一掃し、近江に正しい秩序を取り戻すこと。定頼は自らの命を差し出してでも、それを成し遂げんとする並々ならぬ決意と覚悟を胸中に宿していた。

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