臣下の礼

天文六年(一五三七年) 8月 伊勢国亀山城


「四郎を廃嫡とする。これに異議がある者は居るか?」


 梅戸城と壬生野城、その中間地点に位置する亀山城。以前は関家の居城であったこの城の大広間に、梅戸城に留まっていた六角家の重臣が集結していた。事前に対浅井の反抗作戦の戦略を練るとされていたものの、定頼から開口一番発せられたその一言に大広間にやや重苦しい空気が漂う。義賢の処遇に関しては、定頼の心中を慮った重臣の配慮によって触れられていなかった。


 それを定頼自らが話題に挙げたとあって、そうした空気になるのも当然というものである。

とはいえ、六宿老、そして主だった重臣が勢揃いする中、異を唱える者はいなかった。六角家を転覆させる愚行に走った義賢に対し、温情を掛けるなどという選択肢がハナから存在しないということは、家臣らの総意であったからだ。


 廃嫡という定頼の決断は至極妥当なものであるために、誰一人として不満げな表情を浮かべる者すらおらず、定頼の瞳の奥に若干の寂寞の念が帯びたように感じた。


「管領代様、四郎様を廃嫡するのは尤もだとしても、次代の当主は如何なされるつもりでございますか?」


 後藤但馬守が神妙な面持ちで尋ねると、他の重臣たちも頷いた。重臣たちにとっては義賢の廃嫡よりも、そのことの方が遥かに重要であった。


「うむ、それを告げるために皆を集めた」

「ではもう既に決めておられると?」


 定頼は鷹揚に頷くと、空気に緊張が篭る。


「四郎に代わって、冨樫左近衛権中将殿を我が養子に迎えて嫡男とする」


 その言葉に、至る所から驚愕の声が上がった。反対の色は窺えないが、まさかのサプライズだったのか、もれなく目を丸くしている。俺に全ての視線が注がれるが、身が強張るのを感じつつも毅然とした表情を貫いた。


「無論、弟たちや親族も居るのに、娘婿とは言え六角家の血を引かぬ左近衛権中将殿を養子に迎えてまで嫡男とすることに、納得の行かぬ者も少なからず居るだろう。だが皆の者もこれまでの左近衛権中将殿の六角家に対する貢献、数々の戦功、人柄、そして類稀なる才覚を見てきたはずだ。のう、下野守よ」


 やや不満げな様子が眉間の皺に表れていたのか、宿老筆頭格である蒲生定秀に流し目を送る。


「はっ、左近衛権中将殿の働きは目を見張る物があり申した。そして六角家の縁者でもある。目出度くは思っても、不満など全くございませぬ。ただ余りの予想外のことに、己の中で咀嚼するのに少々手間取っており申した。未熟者ゆえとご容赦願いまする」


 普段は寡黙な定秀が饒舌に告げる様子は意外だった。


「左近衛権中将殿とは歳も近いゆえ、競争心を抱いておっても無理もなかろう」


 定秀の心中を見透かしたように定頼は薄く笑みを浮かべる。


「多少不満があろうと構わぬ。しかし、もし私が討死や暗殺された危急の時、残念ながらその後の六角家をまとめられる者は他には居らぬ。親族を据えたところで、やがて必ず諍いが生じよう」


 滅多なことを申しますな、と諫める声が口々に挙がるが、それを制して定頼は続ける。


「四郎を廃嫡とした以上、そうした万が一の事態も考えねばならぬのは皆も理解しておろう。それに朗報もある。めでたい事に数日前、稍が待望の男児を産んだ」


 俺と壬生野城に随行した僅かな家臣以外知らなかった朗報に、この場にいる家臣は一瞬の沈黙を挟んでワッと沸いた。


「左様にございまする。名を延閑丸(えんかんまる)、と」


 俺は厳かに告げる。自分の名から延を取り、延々と続く清閑な世を願い名づけた。


「六角の血を継ぐ男子が誕生したのだ。左近衛権中将殿はもはや他家からやってきた客将ではない。それでもなお儂の判断に不満がある者は遠慮なく申すが良い。咎めはせぬ」


 畳と衣服が擦れ合う微かな音が耳を鳴らす。しかし不満を申し立てようという者はついぞ現れず、定頼は数度暝目したのち背筋を張った。


「それではたった今より左近衛権中将殿を六角家の嫡男と致す」

「「「「「はっ」」」」」


 全員の口から同意の言葉が発せられた。そして定頼がこちらに視線を向けると、俺は首を小さく縦に振り上座に腰を据える。


「これまでは一門とは言え、客将に過ぎませなんだが、嫡男に指名された以上、粉骨砕身六角家を盛り立てていく所存にござる。その証として義父上から偏諱を授かり、これからは六角左近衛権中将『嗣頼(つぐより)』と名乗りまする。皆の者には未熟な私を支えて貰いたい。宜しくお頼み申す」


 俺の言葉を受けて、六宿老と重臣は一斉に平伏し、臣下の礼を取った。多少のいざこざは生じても仕方ないと思ってはいたが、何事もなく丸く収まり胸を撫で下ろす。延閑丸が健やかに育った暁には六角の家督を譲り、再び冨樫に復姓する腹積りでいる。無論、後見として実権は握ったままにはなるだろうが、六角家にとってはそれがベストだろう。


 しかし六角にとって、大きな身代を纏め得る後継の成長は何よりの悲願である。観音寺騒動のような未来を避けるため、延閑丸にかかる期待は大きい。


 とはいえ延閑丸が六角の当主として中核を為すまで、少なくとも15年は要するだろう。俺も次期当主に任命されたとはいえ、結局は外様の人間に過ぎない。やはり定頼が存命のうちに地盤を固める必要がある。史実の通りあと十数年で死んでしまっては困る。健康には気を遣ってもらいたい。


 その後、本題とされていた浅井亮政を打ち破るための方策を練る作戦会議に移る。議論は白熱し、結局夜更けまで続いた。

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