甲賀衆の説得
天文六年(一五三七年) 9月 伊賀国壬生野城
「左近衛権中将様、甲賀の件ですが……」
「ああ、如何であった?」
三雲定持が語尾を濁しながら告げる。秋入梅の空はどんよりとして、身体がやや重く感じる。六角家中で議論を交わし方針こそ決まったが、想定通りに上手くいくはずもなかった。
「それが、あまり芳しくなく」
「ふむ、なにゆえだ?」
伏し目がちな定持は、この反攻に際して俺の傘下で動くこととなっていた。まず伊賀から近江へ兵を進めるにあたって障害となるのは甲賀である。そして甲賀には甲賀衆がいる。その甲賀衆のまとめ役として長らく役目を務めてきたのが三雲家であり、説得するにしても、攻勢を仕掛けるにしても、甲賀の地理を熟知した人間の協力は不可欠であった。
「甲賀衆は反六角勢力を形成しており申した」
「なに? ……さすがに想定外だな」
池田、青木、山中、隠岐、和田といった甲賀衆の中でも厚く遇され、観音寺城の在番衆を務める甲賀六家の人間こそ依然定持に付き従っていたものの、その一方で甲賀衆の多くはこちらに付こうとはしなかったという。ただ、浅井や六角義賢勢にすら味方することがなかったのは幸いと言うべきか、元々の待遇に不満を抱いていたらしく、六角家の内訌に際して甲賀に兵を向ける者は徹底的に叩くという姿勢が、甲賀五十三家の間では取り決められたらしい。
厄介なことになったな。反六角派勢力を率いるのは甲賀衆の筆頭格である望月出雲守だという。出雲守は元々定持と折り合いが悪かったらしい。かつて六角家が幕府と対立して御家存亡の危機に陥った際、忍びの術を駆使して幕府軍を翻弄し、六角家の再興に大きく貢献した望月家であった。にもかかわらず待遇が劇的に変化することはなく、六角家中では素破や乱破と蔑まれ、甲賀六家とも異なり信を置かれてはいないのが実情であった。
だからこそ、六角家で特に重用されていた三雲定持のことを妬く思っていたのだ。六角家から全幅の信頼を置かれ、九万石を任される三雲定持の待遇は、甲賀忍者の出世頭であると同時に異常に高いものでもある。それだけでなく明との密貿易で多大な富を築き上げ、素破でありながら幕府から認める声も度々聞こえてきた。しかし、元々甲賀五十三家は対等な関係と捉える者が多い中で、突出した権力と領地、経済力を持つ三雲家が度々顰蹙を買っていたのも納得の話だ。もちろんそれだけではないだろうが、抑圧してきた積年の思いがあって、出雲守は反六角派勢力のまとめ役を引き受けたのだろう。
つまり、甲賀衆を説得する役に定持は不適当だったということだ。
「すまぬな。其方らの確執を軽く見ていた」
「いえ、確執というほどのものではないのです。ただ某は大きくなりすぎた。こうして敵視されても致し方ございませぬ」
達観した物言いではあるが、その瞳には若干の寂しさのようなものが帯びているように感じる。
「となれば私が説得しても逆効果であろうな」
「果たして左様でしょうかな」
「六角家を継ぐとなった人間が説得に赴いても恩知らずと腹の内で罵られるだけであろう」
「無論、六角家に良い感情がないことは此度の件で分かり申した。しかし左近衛権中将様は元々六角家の人間ではございませぬ。ならば六角が変わると印象付けるべきでしょう」
「ふむ」
つまり、俺が甲賀に変革をもたらすという未来を、いかに信じさせるかということだ。これまでの六角家ははっきり言って信用されていない。説得するには俺の力が必要というわけだ。しかしそれには……。
「ただ御身のことを考えれば、反六角派を形成する甲賀に自ら乗り込むのは得策ではございませぬゆえ、代わりに甲賀衆と付き合いのある服部半蔵と藤林長門守を向かわせるべきかと存じまする。彼らならば、必ずや良い結果をもたらすでしょう」
「お主の申すことは尤もだ。そのように致そう」
定持も同じことを考えていたようである。聞くところによると、長門守は出雲守と知己があるらしい。そして半蔵も同様だったが、これは友好関係というよりは、ライバルのような感じだ。『伊賀の服部、甲賀の望月』と呼ばれる通り、競い合う気持ちを抱えていたのだろうな。ここは彼らに任せるべきか。
天文六年(一五三七年) 9月 近江国望月城
「久しいな、太郎よ」
「ふん、貴様らは変わらぬようだな。いや、六角に膝を屈した腑抜けと言うべきか」
出雲守は不敵に笑い声を響かせる。半蔵や長門守が知る明朗な印象は鳴りを潜ませ、目の下にははっきりと見て取れるクマがあった。半蔵は瞼を震わせて不快そうに眼光を強める。長門守は表情を一切変えず、出雲守は面白くなさそうに嘆息した。
「まあいい。用件はなんだ。我らも暇ではないのでな。手短に頼む」
「分かっておろう」
「はて、皆目見当もつかぬな」
「六角家に従わぬのは何故だ」
長門守は鋭い眼光で威圧するが、出雲守はそれを意に介さず鼻で笑う。
「それこそ聞いておろう。六角が我らの働きに正しく報いることがないからだ」
「聞いておらぬか? 管領代様が我が殿を嫡男に据えた」
「無論存じておる。それがなんだと言うのだ」
「殿はこの世を変えようとしていらっしゃる」
「変える?」
「戦のない豊かな世にだ」
「ふん、夢物語を宣う御仁だ」
「伊賀は豊かになった」
突然、長門守は感慨深げに語尾を伸ばした。そして回想する様に視線を斜め上に向け、語り出す。
「誰一人飢えることがない。寒さで冬を越せぬ者もおらぬのだ。あれほど、甲賀よりも貧しかった伊賀が、だ。殿のおかげで明日をも知れぬ暮らしでは無うなったのだ。その殿が六角の当主になるというのだ。殿の元であれば甲賀も同様の暮らしが出来るであろう。太郎、胸が躍らぬか?」
「お主は甲賀、近江に収まる器ではなかろう。だからこそ、内に鬱憤を溜めた結果、このような愚かな考えで身を滅ぼそうとしている」
長門守に続くように、半蔵が煽るように告げる。長い間認め合ってきた仲であるからこその発破であった。
「……随分と差がついたな。三雲もそうだが、同様に貧しかった伊賀がここ数年で見違えるように豊かになった。認めよう。俺は嫉妬し、焦っていたのだ。そんな中、六角の支配が崩れた。忍びの術には自信があったからな。己の力でこの状況を打開できる、そんなことを夢見ておったのだ」
根底にあった嫉妬という感情は、出雲守に焦燥感を与え、正常な判断力を狂わせた。
「素破は優れた使い手がおらねば本領は発揮できぬ。殿は我らと同様に甲賀衆を直接召し抱えようと考えておられる」
「……背こうとした我らを許すと?」
「左様。殿は寛大なお方だ。小言すらないであろうな」
その言葉に、出雲守はぎこちないながらも初めて笑みを浮かべた。
「ただしこの戦いで勝ちを手に出来なければこの話は別だ。浅井から南近江を奪還すべく、粉骨砕身努めるのだ」
「ふ、俺を誰だと思うておる。戦で手を抜いたことなど一度も無い。戦功を挙げる良い機会にもなろう」
かつての得意満面な出雲守の姿を垣間見た二人は、揃って顔を見合わせると『まったく調子の良い男だ』と笑った。
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