三雲城の罠

天文六年(一五三七年) 9月 近江国信楽 新宮神社


 俺は信楽の盆地中央に建つ奈良時代に創建された由緒ある新宮神社の本殿で、三雲定持から報告を受けていた。


「六角四郎、やはり動き申した」


 かつて主家の嫡男だった人間の名前を呼ぶトーンとしては、あまりにも冷徹な物言いだった。甲賀衆の総指揮役を担う三雲定持は、俺の指示を甲賀衆に細かく伝え、反対に甲賀衆からの報告をとり纏めるハブ役である。甲賀衆が半蔵と長門守の説得で態度を軟化してくれたのは幸いだった。当然ながら望月党を始めとして反六角派勢力を結成していたことは不問とし、他の素破と同じ待遇を保障している。


 とはいえ三雲定持に対する甲賀衆の心証は然程改善していないのか、両者の関係には深い溝を感じる。それは派閥間の対立でもあるので、一朝一夕に和解とは行かないだろう。戦後は望月党らの勢力をどこか他の地に転封すべきだろう。人口を分散させればそれだけで農地が増えて暮らしも幾分か改善されるはずだ。


「こちらに向かっているか?」

「はっ。左様」


 六角義賢の陣営はロクな重臣が残っておらず、甲賀衆も軒並み反旗を翻したために統制が取れていないばかりか、甲賀衆が流した流言飛語により情報の錯綜も著しいようだ。どの情報が正しいものなのか、素破の情報網を失った義賢の頭では選別できないだろう。


 流言の中には浅井が裏切って観音寺城を攻めようとしているとか、破門された元一向宗徒が徒党を組んで暴動を起こそうとしているとか、嘘としか思えない情報すらも入り混じっていた。


 それ故に、定頼陣営が今現在どのような動きを見せているのか、それすらも不透明な状況に立たされており、今頃は義賢も歯噛みするばかりだろう。ただし浅井の諜報網が全く機能していないかと言われれば決してそうではなく、甲賀衆は浅井と義賢陣営の間で行き交う使者や間者を一人残らず始末し、情報のやりとりを完全に遮断していたのである。


 その上、六角定頼の本隊が浅井亮政が駐留する佐和山城に向かい、義賢の注意を惹き付けてくれた。お陰で俺が率いる軍勢の動きを掴ませずに済んでいる。俺は敵の混乱に乗じて伊賀から桜峠を越えて信楽に兵を進め、三雲城の背後に布陣することに成功していた。


 しかし、六角の本拠である観音寺城を無傷で取り返すには、どうにかして六角義賢を観音寺城から引き摺り出す必要があった。


「元々頭に血が上りやすい男だ。流言に乗ってくれれば運が良い程度に思っていたが、やはり期待は裏切らぬ愚かさだな」


 義賢はバカにされるのをもっとも嫌う男だ。そして同時に自分の身分に対して過剰な矜持と誇りを抱えている自己顕示欲と承認欲求の塊だ。そんな中、卑しい素破と蔑んでいる甲賀衆から思いつく限りの罵詈雑言を噂話として城下に流されたらどうなるだろうか。それだけではない。甲賀衆が近々観音寺城に夜襲を仕掛け、焼き討ちしようと計画を立てているなどという噂を耳にすれば、当然義賢が憤慨するのは火を見るより明らかだ。


 情報の真偽も定かではない中、たとえ噂がデマであると分かっていても、甲賀衆の蜂起に怯えるくらいなら先手を打って攻撃しようという姿勢は理解できる。六角家に限らず、戦国大名は「ナメられたら終わり」なのだ。義賢の短絡的な性格を利用した策謀は功を奏し、狙い通り義賢は三千の兵を率いて観音寺城から打って出た。









 義賢軍は三千の兵を以て三雲城を包囲し、容赦なく攻め立てた。そして2日もしないうちに三雲城は落城し、守備兵は後背の山道から南西へと落ち延びた。


「ふん、こうもあっさりと三雲城を放棄するとは腰抜けどもが。やはり噂は噂でしかなかったということか」


 六角義賢は拍子抜けといった呆れた表情で嘲笑を零した。もぬけの空となった三雲城をあてもなく歩き回り、疑心暗鬼に塗れていた警戒心が安堵で満ちていくのを感じる。同時に『自らの勢威に恐れ慄いたのだ』と三雲城の城兵が恐怖心に捉われて逃げたのだろうと思い巡らし、自尊心を満たして悦に浸っていた。


「左様です、四郎様」

「姑息な手段で四郎様を惑わそうとしておったのでしょう」


 周囲の家臣は阿諛追従する様に賛意を示していく。事実、三雲城は抵抗らしい抵抗はなく、残っていた守備兵にも義賢軍にある程度損害を与えたら城を放棄せよとの指示が下っていた。実際、義賢軍には三十人ほどの犠牲を払いながら三雲城を落としており、反対に三雲城の守備兵に犠牲が全くなかったことを考えると大損害であった。


「甲賀衆は信楽の方へ落ち延びたとの由にございます」


 その言葉を聞いて、義賢の口角は吊り上がる。


「ふっ、ならばこれは好機であるわけだ。直ちに潜んでいる素破どもを一網打尽にせよ。この俺を虚仮にした報いを受けさせ、近江の掌握を磐石なものとするのだ」


 有力な重臣が軒並み定頼陣営に付いている中で、義賢の判断に異を唱えることの出来る者など誰もいなかった。六角家で義賢に諫言する者は父である定頼であり、六宿老であった。この局面で信楽に兵を進めるというのは、短絡的な判断と言わざるを得ない。しかし、誰しもが口答えすれば処罰されるという恐怖に支配され、この場にいる家臣は義賢に付き従っていた。


 そして翌朝には信楽に通ずる山道へ第一陣を入れた。これは過去、幕府軍を相手にして甲賀衆が山に潜みゲリラ戦を展開したことから、囮を放つ形で偵察したのである。しかし、この第一陣は何の問題もなく山道を抜け、信楽の北端に辿り着いた。そのため、義賢は懸念が杞憂に終わったと考えると同時に、甲賀衆は碌な指揮官がおらず戦略的な戦い方が出来ないのだろうという結論に至る。


 かくして義賢の率いる本隊は山道へと兵を進めるのであった。


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