信楽の戦い

「な、何事だ!」


 山中に、突如として耳を聾する炸裂音が響き渡った。義賢の喫驚と同時に、得体の知れない恐怖心が将兵の間に伝播する。本隊の行軍は途中までつつがなく遂行されていた。しかし危機の予兆すら感じられない静寂に、緊張が緩んだのだろう。最後尾の義賢が未知の中間部を過ぎたあたりで、その轟音は起こった。その正体は鉄砲である。


 冨樫家で複製を進めていた鉄砲は数は少ないながらも原物と変わらぬ性能を保持し、増産と本格的な戦での運用に向けて準備が着々と進められていた。その第一弾として、今回十丁の鉄砲が伊賀衆の手練れによって実戦に投入されたのである。


 ただ、靖十郎の軍も総数は決して多くはない。いくら鉄砲という最新鋭の武器を用いてもその数が多い訳ではないので、正面から戦えば相応の損害は覚悟しなければならなかった。そのため、あくまで威嚇射撃という形で六角軍を混乱に導くことを主目的とした運用がなされた。


 機が熟すのを待ち、背後から威嚇射撃を響かせる。これによって、元々臆病で鉄砲のような大きな音が苦手な馬は一斉に暴れ出した。義賢の乗る馬も同様で、義賢はバランスを崩して勢いよく地面に叩きつけられた。


「グハッ……」

「し、四郎様!」

「ええい、何者の仕業だ!」


 一時は衝撃と痛みに目を回しながらも、何とか立ち上がり辺りを見回すが、轟音の正体を知ることは出来ない。


「分かりませぬ!」

「分からぬなら確かめに行くくらいの胆力はないのか、この腰抜けめが!」

「はっ、申し訳ございませぬ!」

「とにかく前へ進むのだ! もうじき山を抜けるであろう」


 未熟な義賢も冷静さを欠いており、背後から迫る恐怖に耐えきれず我先にと将兵を押し退けるように猛進していく。その間にも甲賀衆と伊賀衆の巧みなゲリラ戦術により多くの兵を失うも、運良く義賢に攻撃が当たることはなかった。


 そしてようやく山を抜けた開放感の先に待っていたのは、絶望の二文字であった。


「ろ、六角の旗だと……?」


 あるはずのないもの。居るとしても、烏合の衆に過ぎない甲賀衆の粗末な軍だと義賢は思い込んでいた。受け止めきれない状況に思考が停止する。


「よもや父上ということはあるまい。父上は浅井を狙って北上している。……いや、ならばこれは」


 思い当たる節は一つしかなかった。冨樫靖十郎嗣延、義賢にとって最も忌々しく、この世から消し去りたいと何度も思った男。その靖十郎が六角の旗を携えて自らの前に立ち塞がっている。苛立ちは最高潮に達した。


「クソ! やはり父上は冨樫に六角の家督を譲るつもりで引き入れたのだ! この俺を差し置いて……なぜだ、なぜなのだ!」


 慟哭にも似た義賢の叫び声が響く。そして本来の旗とは違う水色に色染めされた旗に、崇高であるはずの六角家という存在が汚されたような屈辱感を覚えた。


「四郎様、今は」

「五月蝿いわ! あの忌々しい冨樫の首を取るのだ! あの首を献上せし暁には、望む褒美を全て取らせよう。あの男は六角を蝕む悪鬼である!」


 義賢軍はその声に呼応して動き出すものの、動きは鈍重であった。鶴翼の陣で義賢軍を取り囲む嗣頼軍には一切の隙が見当たらず、ロクな隊列も形成できていない中で命を捨てて突進する者など居なかったからである。背後の山道は甲賀衆や伊賀衆が敗走する将兵を待ち構えており、まさに袋の鼠となっていた。


「何をしておる! 早く戦わぬか!」

  

 義賢の声は届かない。代わりに背後から再び銃声が響き渡ると、その音に恐怖心を煽られてパニックを起こす者が疎らに現れた。一度起きた混乱は周囲に波及して収拾の付かない恐慌状態に陥っていく。


 その好機を見逃すはずはなく、嗣頼軍の前方部隊が槍を構えて勢いよく突進する。槍は容赦なく義賢軍の将兵を襲い、迸る血は返り血で嗣頼軍の水色の旗を侵食していった。そして緋色の土と混ざった韓紅の液体が、両軍の甲冑に跳ねて色染めしていく。


「六角の嫡男である俺に斯様な狼藉を働いて許されると思うておるのか!」

「嫡男? ふっ、謀反人の間違いであろう」


 聞こえていると思ったのか、義賢は靖十郎に対し魂の激昂を浴びせた。飄々として受け止めた靖十郎は、聞こえていながらも小さく反応するに留める。そこに英傑・六角定頼の息子という色眼鏡は一切なく、冷ややかに『謀反人』と罵った。


「哀れな男よ」

「……左様ですな」


 沓澤玄蕃助は崩れゆく義賢軍の有様を直視し、明らかに強がった態度を貫く主君を慮りつつ、小声で同調する。史実では織田信長に近江から追放されながらも後に豊臣秀吉の御伽衆となって往生した男の未来を、自分の行動によって断ち切ってしまうことに抵抗があった。最後は定頼の決断に任せ、罪悪感から逃れたかったのも靖十郎の紛れもない本心であった。しかし、義賢の立場に代わって六角家をまとめ上げようとしている靖十郎自身が、その逃げを許容しなかった。


 六角家の嫡男として、六角義賢の最期をこの目で見届けなければならない、そんな使命感があった。


「おのれ、冨樫嗣延よ! この恨み、地獄に行こうとも決して忘れぬわ!」

 

 必死に足掻こうと自ら少なくなった兵を使役する義賢は、未熟ながらも強い憎悪を剥き出しにして猛々しく舞っていた。


「お主の的外れで未熟で愚かな逆恨み、目障りで仕方なかったわ! お主のやる事為す事全てが六角にとって害悪にしかならぬ愚か者の所業であった。だからこそ私が選ばれたのだ! 六角家はこの私が引き継ぐ。そしてお主の為してきたことが愚かな過ちだったと証明してみせよう!」


 最期まで静かに見守るつもりだった靖十郎も、最後の最後で思いの丈をぶちまけた。義賢はその言葉を叩き潰すかのように右手の刀を力ずくで振るい、歯を折れ曲がりそうなほど強く軋ませた。


 そして直後、雑兵が携えた一本の槍によって脇腹を深々と貫かれる。血の絨毯となっていた地面に倒れ込むと共に、勢い盛んな嗣頼軍に押し潰されていった。

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