甲斐武田家の岐路
天文七年(一五三八年) 9月中旬 甲斐国躑躅ヶ崎館
「太郎。儂はお前を廃嫡とする腹積りだ」
「久しく話す機会が無かったと思えば、あまりに非情な通告にございますな」
武田晴信は父・信虎から告げられた廃嫡という言葉を重く受け止めることなく、さも当然のように流して見せる。晴信も実の父親から冷遇され、遠ざけられているのは当然自覚していた。いつかこの時が来ると、心のどこかで覚悟を決めていたのである。
「ふん、随分と冷静だな」
信虎はその態度を見て面白くなさそうに嘆息する。
「いつもの親父殿ならば見せしめとして家臣団を前にして唐突に告げていたでしょう。それをせなんだとなれば、何か思惑があってのこと。違いますかな?」
「そういったところだ。儂がお前を不気味に思うておったのは」
「存じておりまする」
晴信は口元に薄く笑みを浮かべるだけで、目は全く笑っていなかった。
「お前の言う通りだ。家中で儂を追放せんとする声が日に日に深まっておるのは、当然儂の耳にも入っておる」
史実において、晴信は板垣信方や甘利虎泰といった譜代家臣に擁立されてクーデターを画策する。信虎が甲斐を離れて駿河へ向かう中途、国境の封鎖を敢行し家督相続に追い込むのだ。
しかし、信虎は靖十郎から授かった『大膳大夫殿が陸奥守殿に反旗を翻し、甲斐国が内訌となるやもしれませぬ』という言葉を受けて晴信とその周囲の監視を強化していた。それゆえに、信虎がその動きを察知するのは当然とも言えた。
「やはり親父殿の目は誤魔化せませぬな」
クーデターの下地を作り始めたにすぎない現段階で計画が露呈したことに、晴信は驚きを受けつつも動揺を露わにすることはなかった。
「一つ言うておこう。儂はお前を認めておらぬ訳ではない。むしろ恐怖しておるほど認めておるのだ」
「親父殿ほどの苛烈な御方が仰られても説得力がありませぬな」
「親の気持ちなど子には分からぬし、子の気持ちもまた親には察りえぬものだ。お前も人の親になったばかりゆえ、ゆくゆくは理解していくのだろう」
晴信は今年の四月に綾姫との間に第一子の太郎を儲けたばかりであった。綾姫とは晴信が信虎に似て不器用な部分がありつつも、うまくやっていた。
「ならばあえて申し上げて差し上げましょう。親父殿は偏屈で強引で、他者の気持ちなどどうでも良く、気に入った者のみを重用する。私は、そんな親父殿が心底嫌いにございまする!」
晴信は心の奥底に埋もれていた感情を、堰を切ったように吐露する。
「であろうな。不器用な父を許せ。不気味に思うあまり、儂は意図的にお前を遠ざけていた。だがお前は甲斐一国ほどの小さな器で収まるような男ではない」
「そう仰いながら、私を甲斐から追い出したいだけなのでございましょう?」
「もしお前を認めておらなんだのなら、こうして二人だけで向き合うて廃嫡を告げるはずもあるまい」
晴信が若年ゆえの未熟さを漏れ出している中、信虎は終始冷静な態度だった。だが感情が籠っていないということでは決してなく、むしろ苦渋の決断を搾り出すような語り口である。
「家中には儂のやり方を認めぬ者は数多い。お前は神輿に担ぎ上げるには最適な男だと見られておるのだ」
「そんなことは無論存じておりまする! ですが、親父殿を凌駕するには、彼の者らの言葉を受け入れるしかありませなんだ」
「お前の才は平凡な儂などとうに凌駕しておるわ。だが儂は怖かったのだ。お前のような若輩者に背後を脅かされることがな」
その信虎の焦りが強引にも思える家中の統制強化に結びつき、家臣の反発を招いていた。
「親父殿は童同然にございまする! 他にいくらでもやり方はあったはず」
「それが出来ぬから、儂は自分を不器用な男だと認めておる」
開き直りにも聞こえる言葉だが、晴信の言葉を流すことなく一言一句受け止めて瞑目していた。
「親父殿は私を廃嫡して一体、どう致したいのですか?」
熱くなった口調が急激に冷めていくのを晴信は感じる。
「今の状況を看過しておれば、いずれ甲斐は乱れる。花倉の乱を当家で起こすわけにはいかぬのだ。邪魔な芽は早く摘み取るが吉よ。儂は板垣駿河守と甘利備前守を討つぞ」
信虎は晴信を反信虎派の駒ではなく独り立ちさせ、付き従う者らを先導する勇将として才能を伸ばしてやることこそが最も武田家のためになると感じていた。そして晴信の猜疑心を助長させ、武田家に対立をもたらす者、即ち反信虎を掲げる板垣信方と甘利虎泰の排除が必須であると考える。特に晴信の傅役である板垣信方の処断には、信虎に大きな覚悟を促した。謀叛が露見してしまった以上、主導した二人が最も重い処罰を受けるのは当然である。晴信は静かに首肯した。
「私の処遇は如何なされるのですか? 腹を切れとでも?」
「お前を廃嫡した後は次郎を嫡男とする。お前が居ては後の家督争いの元となるゆえ、後顧の憂いは断たねばならぬ。お前も廃嫡となっては甲斐には居辛かろうし、柵の多い甲斐は足枷になろう。お前は他国で名を馳せ、自らの手で未来を切り拓くのだ。諸国を放浪して見聞を広め、天下を目指し自らの志を貫くも良し、欽慕した主君に仕えるも良し」
「しかし行く当てなど……」
晴信はそこまで言って、口が止まった。靖十郎が『もし何かお困りで私がお助けできることがあればお頼りください』と板垣信方に自分への伝言を託っていたことを思い出す。父ではなく自分を名指ししての言葉だったことを今にして考えると、廃嫡と追放という展開を予測した上でのものだったのではないかと思い至る。晴信は背筋が凍る思いを覚えた。彼は自分が想像しうる何十手、何百手先を読んでいるのだろうか、と。
同時に靖十郎に対する尊敬の念が沸々と湧き上がってくるのを感じる。そして顔を上げると目の前には信虎には似つかわしくない柔和な微笑みがあった。
「どうやら肚が決まったようだな」
「はい、私は義兄殿の許へ向かおうかと存じまする」
「うむ、左近衛権中将殿ならば快く受け入れてくれるであろう。一応儂からも書状を認めて早馬で送っておこう。様々な感謝もある。左近衛権中将殿と出会うことがなければ、儂がお前とこうして向き合うことも無かったやもしれぬ」
「では親父殿、御達者で。いつか私が親の心を理解した頃、再び顔を合わせることを祈っておりまする。おそらく私も親父殿と同様、不器用な父親でありましょうからな」
これまでの晴信にはなかった心からの笑顔がそこにはあった。こうして武田大膳大夫晴信は、板垣信方と甘利虎泰の謀叛に加担しつつも許された教来石(きょうらいし)民部少輔景政(後の馬場信春)、飯富兵部少輔虎昌といった腹心の随行の下、妻子を連れて伊賀への旅路を歩み行く。その表情は秋晴れのように晴れやかだった。
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