帰雲城攻略と越中の情勢

天文七年(一五三八年) 9月中旬 山城国桂川東岸


「そうか、内ヶ島城は無事落とせたか」

「はっ。荻城を瞬時に制圧すると、帰雲城の守りは想像以上に堅かったものの、小次郎様の機転もあり攻め落とし申した」


 植田順蔵が跪いて粛々と告げる。帰雲城は飛騨随一の堅牢な山城であり、外敵の侵入に対しては強い警戒を敷いていた。史実では上杉謙信の侵攻すらも跳ね除けている。それほどまでに守勢に有利な地形であり、四方を囲う山々は過去対立した諸国人の侵攻意欲をも削いだことだろう。実際史実でも飛騨が乱れる中、白川は多くの時期で平和を享受している。


 今回は荻城の守りが予想以上に杜撰だったことは助かったものの、これは越中一向一揆の力が強まっている証拠だろう。能登畠山は能登と越中の一向一揆勢力に手を焼いている。能登畠山が越中から飛騨に攻め入れば、越中は強い反発を以て背後を襲うはずだ。内ヶ島の警戒の薄さは、越中における一向一揆勢力の強靭さを示していた。


 ただその分、帰雲城の警戒は強かった。朝倉が内訌を繰り広げていることがあったためか、内ヶ島家の主従は夜襲を警戒して麓の居館を離れ、山の中腹にある帰雲城に詰めていたという。大した危機察知能力だと思う。郡上から北に行くと白川があるため、朝倉景高が郡上を制圧した後、北に矛先を向けてくる事態を危惧したのだろうか。


 そのためか支城のある南部に守備兵を多く割いており、帰雲城に詰める城兵はそう多くはなかった。内ヶ島が敵視する冨樫を警戒しているとしても、兵を送るには越前から北美濃経由で入っていくルートが常識である。それゆえに北部からの侵入は全くの想定外だったはずだ。


 そのため、帰雲城は夜襲に対していち早く対処したものの、ナパームによる城門の破壊によって城内へと一瞬で雪崩込み、兵数で大きく劣る内ヶ島勢は抵抗虚しく玉砕していった。


「内ヶ島は冨樫に異様なまでの敵意を抱いておったゆえ、致し方無かろうな」


 突然攻めてきた敵が冨樫だと知るや否や、怒り狂った隠居の内ヶ島雅氏は自ら槍を持って多くの冨樫兵の命を刈り取ったという。白川に土着してから、守りやすい地形を活かし外征を避ける傾向の強かった内ヶ島を攻め滅ぼさざるを得なかったのは、俺だけでなく次郎兄上にとっても不本意なところだったろう。きっとこちらが攻め込みさえしなければ、武力衝突が発生する可能性は低かった。一向一揆に与していたという事実だけで、最後通牒も突きつけることなく闇に葬ったのである。


 それでも一向一揆に国を奪われ、苦しい思いを生涯通じて味わってきた冨樫家の主従は、俺の葛藤など簡単に跳ね除けて見せた。一向一揆に甘い顔をしていてはこちらが付け込まれると知っていたのだ。


 これを見て、越中一向一揆がどのような動きを見せるだろうか。指導者の一角である井波瑞泉寺は五箇山を通じて白川に兵を向けやすい立地にある。その動きは厳重に警戒を行う必要があるだろう。


 越中守護の畠山は越中永正の乱で長尾為景と共闘したが、これには畠山宗家の畠山尚順から『勝利の暁に越中国の1郡を与える』とした裏取引が持ちかけられたことで、新川郡を長尾に明け渡したため、必ずしも良好な関係とは言い難い。しかし越中を巡って争うようなことはなく、現状でも能登畠山は長尾を越中における実質的な権力者として黙認している現状だ。


 長尾と相互防衛の協定を結んだ以上、何か動きがあれば長尾は協定に従って援軍を送ろうと動くだろう。こちらが言うまでもなく、兄上は加賀から挙兵する前に長尾にはその旨を通達していた。無論、援軍を受けるにはある程度身を切る覚悟が必要だ。


 とはいえ、瑞泉寺側も冨樫と長尾がそういった協定を結んだことは知っているはず。また、飛騨に入る道は大軍を差し向けるには狭隘であり、慎重な判断が求められる。


 ただ、越中の指導者も加賀や越前から流入した門徒をまとめるのには力不足で、門徒間の軋轢は未だに解消されていない。結局、蓮如の孫・実玄が住持を務める勝興寺の傘下に収まる形にはなっているようだが、その結果協調姿勢だった瑞泉寺衆と勝興寺衆の溝が一気に深まっている。勢力が完全に二分される形になったのだ。


 つまりは白川に攻め入るには両者が足並みを揃える必要がある。そして、両者が手を携えたとしても、長尾が背後を脅かす。そういった事情を鑑みるとなかなか厳しいのではないだろうか。彼らが白川に攻め入る大義名分は、『同胞の無念を晴らし、奪われた土地を冥府に捧げるため』である。他国の門徒のために自分たちの命や越中の権益が脅かされては何の意味もないのだ。となれば静観を選択する可能性も十分高いと考えている。


 一方で畿内はと言うと、先日細川六郎が芥川山城に入ったという一報を得た。大内の到着にはまだ10日ほど要するようで、嵐の前の静けさといった様相である。


 そして何より驚いたのが、武田家のクーデターが未然に回避され、それに加担した嫡男の武田晴信が追放されたという事件だ。武田信虎が出した早馬によってもたらされた情報だったが、どうやら円満な形での追放処分だったようである。円満な追放とはいささか矛盾した表現だが、晴信はどうやら俺への仕官を望んでいるらしい。信虎の懇願にも似た言葉と共に、書面から思いの丈が伝わってきた。受け入れない訳にも行かないだろう。あの"甲斐の虎"武田信玄が家臣になると思うと、思わず興奮で鳥肌が立った。甲斐訪問の際は宴会で遠くから顔を見ることしかできなかったので、対面するのが楽しみである。


 

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