夜襲の黒幕
「何? 父上がおらぬだと?」
六角軍の悲鳴が至るところで響き渡るのを遠くから余裕な表情で眺めていた義賢は、寺がもぬけの空だったという報告を聞き、途端に表情に影を落とした。
「申し訳ございませぬ!」
「ええい、まだ近くに居るはずだ。死ぬ気で辺りを探せ! ……さすがは父上というべきか。身の危機を即座に察知し、どこかに身を隠したのであろう」
義賢は血眼になって周囲を見回す。父に対して叛旗を翻してしまった以上、その父の身柄を確保できないという結果は、義賢にとって敗北に近いものである。ただ義賢自身に父を天に送るつもりなど毛頭なく、あくまで自分の力を誇示し、認めてもらおうという魂胆であった。
もっとも、浅井に相当な助力を受けた以上自身の意向がすんなりと通るはずはないわけだが、経験が浅く若年の義賢がそこまで思考を及ばせるのも酷な話であった。浅井は深層に抱えた父に対する承認欲求と、義賢自身の未熟さ、愚かさにつけ込んだのだ。
結果的に定頼が率いていた本隊こそ壊滅に追い込んだものの、一方で一晩中捜索しても、定頼はおろか重臣すらも誰一人として見つかることはなかった。定頼一人ならばまだしも、六角家中で強い権勢を誇っていた六宿老は全員根切りにし、自らの家中での地位を上げようと目論んでいた義賢は大きく落胆した。
そして夕刻になると、定頼や宿老たちは一人として欠けることなく北伊勢の梅戸城に入ったという報告を受けた。当然ながら義賢は激怒し、周囲の者を責め立てる。しかし義賢は気づかなかった。破滅の足音が背後から迫っていることに。
天文六年(一五三七年) 8月 若狭国後瀬山城
「ふふ、ふははっ。面白くなってきたわ」
若狭国後瀬山城の一室にて、堪えるように口許を結んでいた細川六郎(晴元)は、ついに堰を切ったように高笑いを漏らした。
史実で六角定頼が管領代に指名されたのは天文十五年(一五四六年)のことであり、現在より九年先である。しかし史実の比叡山延暦寺と法華宗の対立において、延暦寺側に付くことで細川と共闘姿勢を見せていた六角が、今回は不介入を貫いた。結局比叡山延暦寺は朝敵とされ、助力した細川も大きな悪影響を受けている。
下手に動いて細川が朝敵認定されるのを恐れた晴元は、若狭に亡命して沈黙を保たざるを得なくなっただけでなく、幕府との関係も完全に修復不可能なものとなった。そして管領代となった六角定頼に幕府の実権を剥奪させられる形で、管領を解任されていた。
しかしそんな最中、六角が北畠と事を構える。最初は一部の宿老や客将の冨樫に指揮を一任し、定頼自らは領国に留まったままであり、細川六郎としても手の出しようがなかった。だが六角が戦況を一貫して優位に進める中で、最後の仕上げと言わんばかりに六角定頼が腰を上げる。
北伊勢に残った宿老を軒並み引き連れて自ら出陣するのは、細川六郎にとって絶好の機会であった。南近江の守りが甘くなることを即座に察知したのである。
しかし朝廷から目をつけられている今、直接手を出すことはできない。そこで浅井に接触を試みた。
浅井家当主・浅井亮政も細川六郎の自分本位な胸中を当然ながら把握していたが、これまで幾度となく苦しめられてきた六角を一気に叩けるまたとない好機と見たのである。かくして細川が後ろ盾となって武器や資金を援助する形で、互いの利害が一致することとなった。
六角定頼が落ち延びたことは細川、浅井、六角義賢の三者にとって共通の想定外ではあったものの、それを抜きにしても現状は十分な成果と言えた。
「幕府もさぞかし混乱しておろうな。慌てふためく幕臣たちの姿が目に浮かぶわ。くっくっく」
言うまでもなく幕府は大混乱に陥っていた。六角が後ろ盾となって畿内での権威を保ちつつ、近頃はかつての隆盛を取り戻さんと将軍である足利義晴も精力を投じていた。
しかし頼りにしていた六角が崩壊の危機にあるという現状は、幕府の崩壊をも招きかねない大事である。比叡山という立地にあって将軍の身の安全こそ担保されてはいるものの、身動きが取れない状況に矢も盾も堪らず癇癪を起こし、元々丈夫でない身体も相まって義晴は体調を崩しがちになっていた。
それでも幕府が比叡山の跡地に御所を構えたことは六郎にとって誤算であった。比叡山は単に攻めにくいというだけでなく、南西に京を見据えることで京の鬼門の守護としての役割を担っている。そして幕府を比叡山に置くことが帝の意思となれば、細川とて京に進駐することは難しい。比叡山延暦寺に味方したことで朝敵認定を受けかねない現状では尚更難しい話であった。
力無いはずの幕府が障壁となっている事実に何度も憤慨を覚えた晴元だったが、ここに来てようやく余裕の表情を取り戻した。
(六角の崩壊を見届けたのち、弱った浅井を叩けば近江を丸ごと手中に収めることもできよう。そうなれば幕府など意のままよ。六角なき幕府など、もはや恐るるに足らぬわ)
漁夫の利を狙った晴元の悪どい笑みは、近習の背筋を震え上がらせた。
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