北近江の商人
それは六角定頼が重臣を総動員して北伊勢に攻め入ってから数日後のことであった。留守居役を任された嫡男・六角義賢の元にある男が訪れていた。
「北近江の商人? 左様な下人が俺に何の用だ」
「何やら武器を提供したいと」
「武器? どういう意味だ」
義賢は北近江の商人と『武器』という言葉に若干の引っ掛かりを覚えたが、さほど気に留めることなく流した。
「いえ、私からは何とも存じませぬ。お会いになりますか?」
「父上不在の時にわざわざこの俺と会おうと訪ねてきたのだ。見込みがある者やもしれぬ。期待はせぬが会うことくらいなら良い余興になるゆえ、その商人とやらを連れて参れ」
父から留守居役という名の戦力外通告を受けてから、義賢は心底退屈な日々を過ごしていた。父も重臣も多くが出払っている今、自分が何をしていても一切咎められることはない。この城で自分に口を出せる人間は存在していない。そんな事実から、一種の万能感のようなものが義賢を包み込んでいた。
「はっ、承知致しました」
ただそれでも、義賢は勝ちがほぼ決している戦にすら従軍が許されない己の現状に歯痒さを感じていた。同時に自分を認めてくれる存在を心から欲していたのである。そして“武器”という自らの未熟さを補う可能性のある存在に心を揺るがされたのもあった。それゆえに、身分が下の者を見下す義賢にとって、平時ならまず合わないであろう下賤な商人にすら会う判断を下したのだった。
「お主が北近江の商人とやらか」
「お会いできて光栄にござる。某は岡島屋勘左衛門と申しまする」
「ふん、父上に用があったのではないか? 父上がおらぬことを知ったが、何の収穫もなく帰りたくはなかった、その辺りか」
「まさか。商人と名乗る身でありながら管領代様のご不在を存ぜぬ訳はありますまい。某は四郎様に謁見するべく、参上致し申した」
「まあいい。“武器”と申しておったが、詳しく話を聞こうか」
「四郎様は六角家中におけるご自分の立場はいかがお考えにございますかな?」
「……何が言いたい」
「単刀直入に申しましょう。四郎様は近頃管領代様から蔑ろにされておられる。それをご自身でも薄々感じておられるのではありませぬかな?」
「貴様は俺に叩き切られたいのか? 商人の分際で分かったような口をほざくな」
「当初は厳しい戦いが強いられると考えられていた北伊勢侵攻ですが、冨樫勢の奮戦により勝ち戦になり申した。にも関わらず管領代様は」
「貴様も俺を馬鹿にするのか!」
義賢は腰刀を抜いて剣先を勘左衛門へと向けた。勘左衛門は微動だにしない。帯刀していないから腹を括っているのだろうと義賢は読んだが、その瞳には真意が窺い知れぬ不気味さを孕んでおり、相手は無腰なのにも関わらず義賢はそれ以上接近することができなかった。
「そうは思いませぬか? 管領代様が出陣なされた時点で、北伊勢の趨勢はもはや決しておりました」
実際のところ、定頼も北畠晴具の討死により戦況が大きく変化したことで、北伊勢侵攻は義賢に委任する考えも頭に浮かんでいた。しかしながら、大事な評定を休んだ体調不良という義賢の自己申告を慮って、その決断を見送ったのである。若年の義賢はそんな親心を汲み取ることはできず、勘左衛門の巧みな話術に引き込まれていく。
「……貴様の申す通りだ」
「そして管領代様はその興味をかの冨樫左近衛権中将様に移しておられる。それにはお気づきですかな?」
「無論だ。父上は何かとあやつと俺を比べる。そして俺の前で奴を褒めちぎるのだ。まるで俺が眼中にないと言わんばかりにな」
「左近衛権中将様が憎いですかな?」
「ああ、憎い。奴さえおらねば俺はもっと父上に見てもらえるはずなのだ」
「その左近衛権中将様が六角家の当主の座を狙っているとしたら、如何思われますかな?」
「……さようなことを父上が許すはずがなかろう」
「本当にそうでしょうか。管領代様が左近衛権中将様に嫁がせたのは、猶子とはいえ紛れもなく六角の血族にございまする。公家である三条家の娘でもあり、先代当主の息女でもある」
「……」
「何よりも客将として六角家に迎え入れられてからの功績も並大抵のものではありませぬ。短期間で伊賀を平定し、多くの銭を稼ぎ、領地を豊かにし、単独で北畠を地に落とした。家督を継ぐには申し分ないでしょう」
「まさか父上がそのような愚かなことを考えるなど……」
驚愕と失望が入り混じった複雑な胸の内に虫が這ったような感覚を覚え、義賢は小刻みに咳き込んだ。
「それを止めるには四郎様の御力がなければ叶いませぬ」
「何が言いたい。貴様はただの商人であろう。武器を提供するから父上に叛旗を翻せと言いたいのだろうが、たかが商人の分際で分を弁えよ!」
「赤尾という名を聞いたことはありませぬかな?」
「赤尾? 浅井の家臣か。それがどうした」
「実は某、赤尾美作守清綱と申しまする」
「ほう、名を偽っていたことは不問と致そう。その赤尾が何の用だ?」
「単刀直入に申しまする。浅井家は四郎様に兵をお貸しする用意がございます。それを武器と表現したまでにございまする。北伊勢に出陣している今しか機会はございませぬ」
「……」
六角定頼を奇襲したのは、嫡男である義賢本人であった。それは義賢本人の父に対する猜疑心を浅井が利用したものであったが、その嚆矢はある人物の差し金である。
「聡明な四郎様が正当なる六角家の次期当主であることを世に知らしめるのです。この機を逃せば、六角家は冨樫に乗っ取られることになりましょう。四郎様の類い稀なる才覚を見出せぬ愚かな管領代様は盲目も同然にございまする。四郎様、その手で管領代様の目を覚まさせるのです!」
浅井亮政は『六角義賢が未熟で感情的な性格であり、甘言を弄すれば容易に靡く』と見て、重臣の赤尾清綱を送り込んだ。その動きを極力掴まれないため商人に偽装し、名を偽った上で、義賢に接触したのである。
「ふ、ふはは。我が父は盲目も同然か。確かに父上は正しい判断力を失っておられる。それを覚まさせるのも嫡男の役目というものだな。良かろう。貴様の武器とやらを借りようではないか」
「ご英断にございまするぞ。浅井は全軍を以て支援致しまする故、四郎様は堂々とお構えくだされ」
清綱は深々と頭を垂れて敬意を表した。義賢は高揚感に駆られながら、武者震いのように揺れる自らの拳を見て白い歯を出した。
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