弱さとの決別

 小谷城は天然の要塞である立地に加え、かつて援軍に来た朝倉宗滴が築いた金吾丸など、城郭が複雑に張り巡らされている。亮政の嫡男である浅井久政がこの城を増築する以前ということを差し引いて考えても、通常であれば決して数日で落ちるような脆い城ではない。


 しかしながら、亮政のみならず浅井家の主従は『同盟する朝倉が控えているから背後は安全だ』という前提条件を過信していた。その結果、背後に気を回すことなく、ほぼ全兵力で出陣していたのである。小谷城にまとまった数の守備兵を置かなかった自らの浅慮を亮政は悔やんだ。冨樫軍は信楽から大津に移動した後、商人に銭を渡して大津や堅田から船を借り上げ、兵を乗せて小谷城の西にある尾上湊へと上陸していたのだ。


 このままでは落城は時間の問題だと判断した亮政は直ちに佐和山城を出立し、小谷城へと急行する。根拠地である北近江を守ること以上に優先すべきことはなかった。南近江の奪取は失敗したが、これまでも幾度となく敗北を経験してきた亮政は、また好機を得る機会はいずれ巡ってくると決して心は折れはしなかった。


 それは無情にも小谷城が既に冨樫軍によって占拠されていた現実を目の前にしても同様であった。絶望に暮れかけた将兵を鼓舞し、小谷城を奪還する目標を掲げる。亮政だけは下を向いてはいなかった。


 しかし、亮政の衰えない気迫を前に勢いを盛り返しつつあった浅井軍の背後に迫る影は、浅井軍の将兵の戦意を再び地へ落とす。


──六角定頼率いる六角軍本隊の襲来であった。








「結局、結局こうなってしまうのか」


 思わず漏れ出た弱音に、儂は慌てて口を噤む。これまでは何度負けても這い上がってきた矜持が助けたのか、諦念が胸に去来してもそれが口から出ることは一度もなかった。


 背後から迫り来る強大な影が、何度も挽回を期してきた己の強き信念を挫いたのだ。どれほどの策謀を弄し、その牙城を切り崩そうと試みても、六角という巨人に敵う道理はなかった。心だけは強くあろうと思うておったのに、このザマだ。


 自嘲の笑みをこぼし、ふと混乱の喧騒に目を向ける。自らの視界が、靄がかかったかのように虚になっているのが分かる。それでもその隅で、幾つもの双眸が自分を見つめているのが分かった。


 思わず溢した弱音を叩き潰すような色を含んだそれに、儂はハッとする。自分と同様に幾度もの敗北を経験していたからだろう。取り乱す者は一人としておらず、むしろ逆境を前にして武者震いで身をほぐす者もいた。それは儂に対する絶対的な信頼。同時に自らの弱さを痛感した。


「今のお言葉は聞かなかったことに致しまする。これまで幾度となく死の際に追いやられながら、ここぞという時に底力を発揮する。それを信じ、我らは殿に忠誠を捧げてきたのです」

「我らは一蓮托生。死ぬ時は一緒にございまする」


 かつては一切のまとまりを持たなかった国衆が、ここまでの団結を見せている。口々に発せられる言葉は、儂を糾弾するのではなく、滅亡の危機に瀕してもなお挽回への筋道を描かんとするものだった。そしてそれが出来うると、儂の経験に語りかけるような口調だった。儂にはその責務があると、重く突き付けるかのように。


 今までは退路がある戦いだった。それがなくなって、心のより処を失った気になっていたのだ。たったそれだけで、儂は負けた気になっていたのだ。ただ退路が無くなっただけ。心の拠り所をそんなものに置くこと自体が間違っていたのだ。儂を支えるものは、ここにあった。


「ふふ、ふはは。その通りだ。何を弱気になっておったのだろうな。積み上げてきたものが水泡に期すのを黙って見ているなど 、儂らしくもない」


 儂は己の中にあった弱音を吹き払った。憑き物が落ちたような気分だ。敗北は上等。たとえ小谷城を失ったとて、それが滅亡と同義だと、なぜ短絡的に考えてしまったのだろうか。いくらでも巻き返す機会などこの手で勝ち取ることができる。


 思考に冷静さを帯びたのを感じる。儂は携えた軍配を敵の正面へと向け、ゆっくりと振り下ろした。


「皆の者、冷静に戦場を見よ! 六角は一度敗走して損耗が激しい。すぐに我らを追って立て直しただけに過ぎぬ。そんな強行に随行した将兵の士気が高いはずもない!」


 同意する声が次々に挙がった。自然と胸臆に余裕が去来する。


「六角の弱兵どもなど恐るるに足らず! 全力を以ってして脆き敵陣を突き崩すのだ!」


 応ッッッ!と割れんばかりの喚声が響き渡る。そして儂の下知に呼応した将兵は、牢固たる意地を携えて敵陣に向かって突撃を始めた。

 

 これほどの劣勢を強いられる中でも、弱気を表に出すことなく戦いを進められるのだ。その胆力こそ浅井にとっての屋台骨であり、逆境における無類の強さに繋がっている。


 たとえ負けが濃厚であろうと、それが諦める理由にはならぬのだ。むしろ逆境こそが我らの動力源である。儂は敵に向かって一気呵成に突き進む味方を見て、口角を吊り上げた。

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