多賀の戦い

「狙うは六角弾正の首! 奴を葬れば六角の趨勢は決しよう!」


 先制攻撃を仕掛けたのは浅井亮政であった。決して沈黙に耐えかねたからではなく、亮政が最適な好機だと睨んだからである。夜が明け薄く靄がかかる払暁の時こそ、亮政の選んだ絶好のタイミングであった。


 前日からの睨み合いを六角側から破るとは考えにくい。時間が経過することは、信楽で六角義賢を破った冨樫軍がこちらに辿り着く時間稼ぎにもなり得る。また浅井軍の兵に心理的重圧を与えて疲れさせるため、六角軍として積極的に攻勢を仕掛ける必要性は少なかった。


 六角軍は永源寺での一件から夜間の警戒を強めている。その中で奇襲を行うのは逆効果になる恐れがあった。そこで夜間の内に静かにじわじわと距離を詰め、東の空が明るくなり警戒が緩みかけた瞬間を叩く。視界がまだはっきりしない時間帯に勝負を仕掛けるのが、亮政の思惑だった。


 一瞬虚を突かれた形になった六角軍も、逐一浅井方の動きを警戒しており、この展開は織り込み済みである。浅井軍が進軍してくるであろう場所に伏兵を忍ばせていた。ただでさえ通常よりも視界が悪い中で草が生い茂る草原地帯に身を隠していれば、その存在に気づくことは難しい。浅井軍が一瞬崩れかけた隙にすぐさま態勢を立て直した六角軍は、弓矢で応戦した。


「ふ、この程度取るにも足らぬわ!」


 浅井亮政という男は、誰よりも諦めの悪い男であった。箕浦河原の合戦でほぼ同数の六角相手に大敗を喫して滅亡の危機に瀕しただけでなく、その後も連戦連敗。本来ならば国人衆の心は離れていても仕方がない。しかし亮政は決して強い姿勢を崩さなかった。どれだけ派手に負けても絶対に折れない。負けても後ろを向くことなく次の策を練る。負ける度に強くなっていく。


 その姿だけでなく、亮政は国人衆をまとめ上げるための努力を怠らなかった。負けても味方の将を責めるのではなく、武勇を褒め称えた上で自らの責任だと深く反省する。決して保身を考えることがない亮政は、北近江の国人衆の心を鷲掴みにした。六角という共通の敵を得た中で、亮政のどこまでも愚直な姿が彼らにとっては眩しく映ったのだ。


 この戦は亮政にとって箕浦河原のリベンジであった。同じ過ちを繰り返さないために、今日まで綿密に準備を重ねてきたのだから。


 緒戦は両者ともに譲らず、まさに互角という表現が相応しい戦闘が繰り広げられた。しかしながら、やや六角軍が勢いに押されている様相である。武勇に優れた雨森良友を筆頭に、六角の先鋒を切り崩したのは国人衆の勢いが優っていたのだ。一方で六角軍は味方に加わったばかりの北伊勢衆が多く、また元々南近江の国人の独立性が強いためにややまとまりに欠けていたのが、両軍の間に形勢の差となって現れていた。


 しかし、魚鱗の陣で中央突破を図っていた亮政は、衡軛の陣を敷いて誘い込んでいた六角軍の意図に気づかなかった。


「このまま押し切るのだ!」


 それでも依然、浅井軍の勢いは盛んである。浅井が抱えた刃は六角の本陣に迫ろうとしていた。











「やはり浅井は兵を分散させなんだな。箕浦河原で兵を分けて大怪我を負うたゆえ、同じ轍は踏まぬであろうと思うておったとおりだ」


 箕浦河原での苦い勝利は今でも色濃く記憶に残っている。浅井は兵を分散させて対応させたものの、その判断が仇となり押し切ることができた。だが、私はそれを勝利だと思うておらぬ。六角も大きな痛手を負い、敗走する浅井軍を追撃して江北を奪取できるほどの余力を残してはおらなんだからだ。せっかく喉元まで刃を突きつけたのに、追撃を諦めざるを得なかったのだ。江北を手中に収められなかったという結果は、六角にとって敗北と同義であった。


 あの箕浦河原の戦いでもっと上手く戦えておれば今頃、江北は六角のものだったはずだ。そんな後悔とも言える苦い思いは今でも儂の胸中にある。あの失敗の結果が現状に繋がっていることに歯痒さも感じている。備前守は全く気づいておらぬだろうが、私にとってもこれは雪辱を晴らす戦であった。


 そして狙いどおりに浅井軍を包囲する形が作れた現状に、自然と口角が上がる。


 しかし、浅井軍の気迫は群を抜いて高かった。備前守の鼓舞に呼応した鬨の声が地響きとなって、背後の鈴鹿山脈を揺らさんばかりに木霊する。


「これが負け続けた男の底力か」


 武者震いが無意識に身体の強張りを解す。一瞬固まっていたのだ。何度負けても這い上がろうとするその気迫に気圧されていたのだ。劣勢こそが備前守が帯びた強さ、勢いの源であった。負けた悔恨の念が人を成長に導いている。浅井亮政という男の執念が、私の緻密に練った策略を上回った。


「殿! 一旦退くべきかと存じまする! 下手をすればこのまま押し切られかねませぬ」

「よもやこれほどとはな。退くしかあるまい」


 あくまで冷静な態度を貫いたが、心中は平静ではいられず、小刻みに震えを見せる右の瞼から動揺は隠し切れなんだ。


 過去一度も敗北したことのなかった備前守に敗北したのだ。実際は引き分けであろうが、去来した敗北感はいつまで経っても消え去らなんだ。同時にこの借りはすぐに返す、その気持ちが芽生えた。


 六角軍は後藤但馬守の提言で戦況に早めの見切りをつけ、損耗を重ねることなく戦場を脱した。浅井も一旦追撃する姿勢を見せたものの、六角軍の猛攻を受けた両翼の兵がこれ以上の攻勢は不可能なほどに消耗していたため、やむなく一旦佐和山城へと引き返す決断を下す。感情が昂り視野が狭まった中でも冷静な判断を下すことのできる亮政が、大将として申し分のない才覚の持ち主であることは誰の目から見ても明らかであった。


 夕刻に佐和山城へと帰還した浅井軍は、早急に態勢を立て直し、六角軍に再攻勢を仕掛ける目論見であった。ところが二日後、浅井亮政は寝耳に水の凶報を聞くことになる。


 それは信楽で六角義賢の軍勢を打ち破った冨樫軍が小谷城を攻めているとの報せであった。

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