今浜の戦い

 態勢を立て直した浅井軍は、亮政の軍配が振り下ろされると同時に、六角軍本隊に向けて突撃を敢行する。


 亮政は小谷城との距離がやや開いていたために、すぐに冨樫軍が背後を突いてくる恐れは薄いと考えたのだ。まずは短時間で消耗が激しかった六角軍を叩き、勢いそのままに一旦佐和山城に撤退、その後小谷城の奪還に取り掛かる心算であった。


 ゆえに、浅井軍は全力をこの突撃に捧げるほどの勢いを帯びていた。


「悪いが私も此度だけは負けてやるわけにはいかぬのだ」


 対する六角定頼は、勢い盛んな浅井軍の突撃を見ても冷静さを保っている。一度は浅井軍の底力を目の当たりにして遅れを取ったが、同じように劣勢を甘受するほど、定頼も甘くない。


 定頼は手負いの六角軍が正面から衝突すれば甚大な被害を被るのは必至だと考えていた。それでも無理を押して追撃を敢行したのは、靖十郎が編み出した釣り野伏を試行するためである。


 背中を見せて逃走すれば、浅井の勢いに恐れ慄いたとか、負傷兵が多く戦える状態ではなかったとか、色々な思考が巡る。中には当然、罠だと捉える者もある。


 しかしながら、定頼は背後に冨樫軍が控えているという事実が、浅井軍の選択肢を狭めると考えていた。浅井からすれば、できる限り早く六角軍を片付けたいと思うはずなのだ。浅井が手をこまねいている隙に冨樫軍が背後から襲いかかれば、瞬く間に瓦解するのは自明の理である。


 もし浅井が乗って来なくとも、既に浅井の退路は断たれている。難しい舵取りを迫られるのは明瞭であった。


 結果的に、浅井軍は定頼の思惑に見事に嵌ることとなる。


「囲い込め!」


 しかし伏兵に脇腹を痛打されながらも、浅井軍は緒戦の高い士気、凄烈な勢いを維持して戦い続けた。


「負けるな! 六角弾正の首を獲れ!」


 亮政は陣頭に立って汗を散らしながら将兵を鼓舞する。


「お主は強い。負けを誰よりも知るからこそ、その異質な強さは賞賛に値する。だがもう良いであろう。私も六角の家督を靖十郎に譲る。これで終わりなのだ」

「負けるわけには行かぬ! 負け続けた儂を信じ、慕い、共に戦うと決めた者たちの期待に応えねばならぬのだ!」


 お互いの言葉が届いていないにも関わらず、両者は魂の殴り合いで共鳴を見せる。


「先の戦で、一度は私を追い抜いたのであろう。しかし私もお主に負けて強くなったのだ。ゆえにお主には負けぬ。幕府の管領代としての意地、矜持がある。二度も負けてやるわけにはいかぬ!」


 その言葉に呼応するかのように、六角軍は一気に浅井軍を三方から押し込んでいった。窮地に立たされた亮政は、歯を軋ませながら、それでも諦めぬと掌に携えた軍配に力を滲ませる。


 『稀代の野心家』でありながら、常に人を気にかけ、戦略に長け、民に愛された男。その勇姿は戦う六角軍の将兵の心に畏怖の心を植え付ける。そして強き男だからこそ、自分達の手で葬り去ることがせめてもの手向けだと、定頼は攻撃を緩めることなく全力で立ちはだかった。


 その頃には、小谷城から出撃した冨樫軍の増援も背後に迫っていた。四面楚歌の状況になり、亮政はついに死を悟る。しかし焦るでもなく、悔しがるでもなく、その瞳に帯びるは圧倒的なまでの戦意。そして口元には微かに黄ばんだ歯が鋭利に顔を覗かせていた。


 周囲の将兵は、その表情を見て目を丸くする。敗北の二文字があと少しのところにまで迫っているというのに、側から見れば余裕があるかのような顔つきを見せたからだ。将兵は漏れなく不気味に思いつつも、それは冥府に誘われることに対する本能的な恐怖心を打ち消した。


 そして戦いは終局を迎える。覚悟を固めた死兵となって槍を振るう浅井軍は、最後の一兵になるまで勢いを失わなかった。


 勝利を迎えたはずの六角軍も、緒戦の被害も相まって目を覆うほどの損害を被っていた。浅井亮政が残した爪痕はあまりにも大きい。冥府に向かう覚悟で一兵でも多く道連れにしようという意気は、浅井亮政が、浅井軍が強みとしていた「決して諦めない」粘り強さを最後まで見せていた。


 浅井亮政の討死は浅井家の滅亡を意味していた。今浜の戦いで敗れた浅井軍は壊滅し、本拠の小谷城は抵抗なく落城した。


 久政ら一族の男子は根切りにされ、重臣の多くも処刑されることとなった。多大な犠牲を払った六角家であったが、元々領していた南近江のほぼ全域を穏便に取り戻し、北近江についても浅井が先の戦いで重臣のほとんどを失っていたために抵抗は然程大きいものではなかった。


 ただし北近江の国衆のうち、此度の戦いで日和見していた阿閉三河守貞義や東野周防守行信、片桐直重などの一部家臣は、土地を召し上げた上で、浅井の挙兵に加わっていた高島郡の高島七頭の討伐の先鋒を任せた。主力を派遣して大きく力を削がれていた高島七頭はすぐに討ち滅ぼされることとなった。


 かくして近江全土を巻き込んだ戦いは終わりを告げる。結果としては六角の勝利とはなったが、六角はあまりに大きな痛手を負うこととなった。嫡男である義賢を失い、六角家の土台を揺るがされることになったこの戦が、戦国の情勢に大きな影響を与えることになるのは言うまでもなかった。

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