大戦の幕開け
天文七年(一五三八年) 9月上旬 伊賀国壬生野城
細川晴元の策謀にまんまとハマってしまったわけだが、朝倉景高が細川と手を組み、兄を殺してまでこのような大騒乱を引き起こすとは正直想定外だった。細川と景高の互いの思惑が一致した結果、入念な計画を練って実行したのだろう。
その結果、六角家は後手に回らざるを得ない状況に陥っている。朝倉の騒乱は加賀にも当然ながら影響を及ぼした。朝倉景高は宗滴のいる郡上に兵を進め、宗滴は不利を強いられているというが、次郎兄上は宗滴救出という選択肢を選んだ。正直驚いたが、詳しい話を聞くと納得の話だった。越前や郡上の民を守るため、国外への出兵に乗り出す決意を固めたという。本当に頼もしくなったものだと思う。
ただ、冨樫軍が宗滴救援に向かう上で障害となるものが二つある。
一つは越中一向一揆の存在だが、こちらは長尾との婚姻同盟によって相互防衛・相互不可侵の協定を結んでいる。
史実では長尾為景が隠居した後、守護代を継いだ長尾晴景によって一旦は内乱が収束していくわけだが、為景によって幽閉されていた上杉定実を守護に復帰させ、定実の養子に伊達稙宗の三男・実元を迎えようとしたことで、再び戦乱の渦が巻き起こる。
しかし器量に乏しい晴景はその戦乱を収めることができず、対立した弟の長尾景虎の台頭によって長尾家は飛躍を遂げていく。
現在の長尾為景は隠居の意向を示しつつも、未だ晴景に家督を譲ることはなく当主として意欲的な統治を続けていた。とはいえ、隠居を迫る声も家中で根強くあるのも事実だった。
史実で晴景が上杉定実を守護に復帰させたことが今後の越後における戦乱を大きく左右するため、俺は密かに長尾為景に文を送り、上杉定実の『処理』をかなり遠回しに助言する。
すると意図が通じたのか、間もなく定実は病の床に臥した。こうなれば晴景が上杉定実を守護に復帰させることは難しくなる。
本来なら晴景への家督相続を見送り、長尾景虎を嫡男に据えるのが長尾にとっては最も良いのだろうが、景虎はまだ十歳にもなっていないので難しいだろうな。
こうした根回しがあったため、ひとまず長尾家はまだ越中に目を光らせる余裕がある。越中一向一揆の動きをある程度は躱せるだろう。
そしてもう一つは郡上に行くルートだ。これが最難関と言っていい。朝倉領を通るルートは誰が敵になって襲いかかってくるか分からず、越中から南下するにも、一向一揆を刺激する恐れがある。
この二つを考えると、加賀から手を出すのは難しいように思える。実際、朝倉も冨樫が郡上に兵を送ることなど考えていないだろう。
だが、小次郎兄上にはどちらも刺激しない一つの方法に辿り着いた。
俺は鉄砲の配備を目論み、随分前から塩硝の生産を秘密裏に目指してきた。そのために必要だったのが、越中最南端にある五箇山へ繋がる運搬路である。加賀北東部の湯涌谷を経由して、横谷峠を越えて小矢部川を沿い、越中の南端へと通ずる道だ。
だが、あの道はとても甲冑を身に纏った兵が進めるような道ではない。道が狭いだけでなく勾配も非常に険しい山道だ。
それに、北部からの侵入となると飛騨が障壁となってくる。中途にある帰雲城の内ヶ島家は熱心な一向宗徒であり、加賀一向一揆を滅ぼした冨樫家には相当な敵愾心を抱いていると聞く。懐柔という手は無いだろう。
とはいえ、五箇山での密造が露見しているのは長尾のみで、よもや冨樫が横谷峠を越えてくるなど思いも寄らないはずで、内ヶ島の虚を突くことができれば、然程手間取らないかもしれない。
史実では頽勢の中、守護権力の回復に尽力し、乏しい武力で加賀一向一揆と十二分に渡り合って見せた小次郎兄上の采配に期待したい。
しかし加賀ばかり気にしてはいられない。今の俺は六角家の嫡男であり、伊賀国主の立場にあるのだ。細川が足利義維を籠絡し、六角追討令を諸大名に発している中、目を逸らすわけにはいかない。味方である三好利長が三好政長に対して大攻勢に出ると一気に盤面を染め上げ、政長の喉元に刃を突きつけたが、政長は細川六郎の下へと逃げ果せたという。
御内書に応諾し兵を畿内へと送ったのは、山名を始め尼子、大内といった西国の有力大名の面々であり、大和の国衆を加え総勢5万は下らない軍勢を編成したようだ。最も距離の離れている大内の軍勢の到着を待ち、近江へと攻め寄せる腹づもりのようだ。
三好利長もこの大軍に参陣するよう主君である晴元に命じられたようだが、三好政長と共に戦うことはできないと突っぱねたらしい。六郎としても政長を処刑することはできず、また三好利長に逆臣の烙印を押すこともできず、拒否するのも無理はないと感じた六郎は、今回の参陣を強制しない方向へと舵を切った。正直、利長と敵対はしたくなかったのでありがたいし、上手く切り抜けて六郎に疑いをかけられることなく済んだのは朗報だ。
また、敦賀には宗滴の養子である朝倉景紀がいるため、若狭から近江に大軍を進めるには高島への若狭街道だけという点は非常に大きい。二方向から攻め寄せられるとかなり難しい戦況に立たされてしまう。若狭街道も流通の要とはいえ大軍が通ることは想定しておらず、道幅が狭い箇所が多い。隊列が長くなれば隙が生まれるため、若狭街道を注視されている中兵を進めるのは危険が伴う。そのため、細川は丹後・丹波・摂津を伝って本拠・芥川山城へと進駐するらしい。これには西国から有力大名を引き連れることによってまとまりを欠きつつある諸勢力に細川の勢威を示す意味も大きいだろうな。
ただ、西側からしか敵が攻め入ってこないというのは、六角にとっては唯一の追い風だった。
総大将の六郎は、どうやら足利義晴が幽閉された直後、若狭を出て畿内へと向かったらしい。もはや朝敵認定など権力さえ手に入れれば関係ないと言わんばかりの姿勢である。
畿内だけでなく、西国、北陸一円を巻き込んだ大戦が今始まろうとしていた。
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