冨樫家の決断
天文七年(一五三八年) 8月 加賀国鶴来城
「父上、宗滴殿からこのような書状が」
「宗滴殿から?」
冨樫宗家現当主・冨樫次郎泰俊から書状を手渡された前当主・冨樫加賀守稙泰は、反射的に険しい表情を浮かべる。過日、盟友である朝倉孝景の訃報に触れ、半日ばかり自室にこもっていたが、これも世の常だと己の中で消化したばかりだった。むしろ半日で立ち直れたのは、波瀾万丈な人生を送ってきたゆえだろう。ただそれゆえに、稙泰は良くない予感を思い浮かべる。遺言状などということはまずあり得ないだろうが、良いことでないことは確信していた。
「謀反者・朝倉右兵衛尉が郡上に兵を向けたと。形勢不利は明白ゆえ、救援を頼みたいとの旨にございまする」
「左様か」
短く返答すると、そのまま黙り込む。難しい顔をして硬直するのも無理はなかった。
「父上、これはおそらく救援の要請などではなく、後方支援の依頼かと存じまする」
「ほう、なぜそう思う?」
「宗滴殿も分かっておりましょう。この内訌に我らが介入すれば、弾正左衛門尉殿が遺した冨樫と朝倉の友好関係は完全に崩壊致しまする。無論、静観が最善択では無いでしょうが、御家のためを考えれば、我らにとって静観以上の択は見つかりませぬ」
冨樫家はかつて、本願寺の内訌に介入したことで、致命傷を受けてしまった。他家の内訌に介入することがどれだけ大きなリスクを孕んでいるのか、最も理解している。そして、ようやく名実共に加賀守護という地位に返り咲いた冨樫家を、再び国の存亡に関わる戦乱に導くことは、本来ならば当然に避けたい話であった。それは側に控えて長考に耽る泰縄も同様である。
しかし、泰俊の言葉が自身の本意でないことは誰が見ても明らかだった。朝倉家には、宗滴には一向一揆が束ねた3万の大軍を邀撃した際に、援軍として助太刀を受けた恩がある。ここで見捨てるのは、武士の恥とも言える行為だった。
後方支援は確かに『恩を仇で返す』という後ろめたさからは逃れられるだろう。だが、朝倉孝景の死を間近に触れたばかりだった
「御家を危険に晒さぬためならば、これは突っぱねるべきなのだろう。しかし、弾正左衛門尉殿の無念は晴らさねばならぬ」
「……父上」
泰俊はその胸の内を慮り、否定の言葉を紡ぐことは避けた。
「父上、某も無念を晴らすべきかと存じまする」
「小次郎、何を申す」
沈黙を貫いていた次男の冨樫小次郎泰縄が、しっかりとした口調で賛意を示す。それに泰俊は目を見開き、軽く糾弾するように口調を強めた。
「折角取り戻した加賀を再び危険に晒すことは兄上の信条にも反しましょう。民に労苦を強いることになる……。その考えが間違っているとは決して思いませぬ。しかし、ここでの静観は時間稼ぎにしかなりませぬ」
泰俊は冨樫家当主になってから、民に安らかな暮らしを与えるために身を砕いてきた。今の加賀を守りたい、加賀守護としての自覚が如実に現れているのは、誰の目から見ても明らかである。だがそれは極端なまでの消極性でもあり、他国に兵を送ることを拒む『戦国大名』としてはあるまじき考え方でもあった。
一度全てを失った冨樫家が、幸運を手にして主権を取り戻した。冨樫家主従にとって、その地位を失うことほど恐ろしいことはないだろう。家臣の中にも泰俊の考えに同調する者も少なくはなかった。
「兄上、ここで宗滴殿が破れれば越前は如何なる状況に陥ると思われますか?」
「親幕府派と親六角派の均衡が完全に崩れよう。そして朝倉右兵衛尉が朝倉の当主として鞭を振るう……」
「その後はどうなるでしょうか?」
「その後?」
「無法者がのさばれば、加賀にも火の手が及ぶましょう。朝倉右兵衛尉は積極的な外征方針を取るはず……」
朝倉景高が翻意を起こしたのは、消極的な対外戦略に不満を抱いたことが大きい。無論、それ以外の要素が複合した結果の謀反ではあるものの、当主となった景高がその地位に収まっただけで満足するような男ではないということは周知の事実であった。
「遅かれ早かれ、兵を出さぬわけにはいかなくなると、そう申したいのだな?」
泰俊の問いかけに泰縄が頷く。
「越前から兵が攻め入ってくれば、此度とは比べ物にならぬくらい加賀は痛手を受けましょう。無法者の率いる軍です。田畑は踏み荒らされ、刈田狼藉も起こりましょう。それが起こる前に、食い止めておくのが吉でしょう」
泰俊は咀嚼するように大きく頷く。その未来を想像して、額に皺が寄った。
「次郎よ、民を守りたいという気持ちは分かる。だが、民は加賀だけではないであろう?」
稙泰の言葉に、泰俊はハッとしたように瞠目する。
「これまでは加賀の民を安んじる、それだけに目が狭窄になっており申した。加賀の外に住む民はまるで人では無いかのように見ていたこと、否定できませぬな。なんと愚かだったのか、今ようやく気づき申した」
「次郎よ、小次郎と共に越前の民を、宗滴殿を無法者から救い出すのだ。良いな?」
「はっ、承知致しました」
泰俊はまた一段武将として飛躍するきっかけを得る。防御一辺倒ではなく、危地にも立ち向かえる胆力、その一片を確かに吸収したのだった。
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