宗滴の窮状

「ふ、ふはは。愉快、まっこと愉快じゃ。愚かなる兄をこの手で始末してやったわ」


 朝倉景高は高揚感から高笑いを浮かべる。血濡れた手を気にも留めず襖に手をかけた。兄を殺したという負い目は一抹も窺えず、城を包囲していた自らの手勢にも『狂気に取り憑かれた御仁だ』という印象を植え付ける。これからはこの私が朝倉の舵取りを担うのだ、という充足感が景高を厚く覆っていた。


 かくして朝倉家は動乱の渦に巻き込まれる。特に隣国で同盟関係を締結していた冨樫家にとって、この事件は国の防衛戦略に大きな亀裂をもたらすものであり、激震が走った。この兄殺しは『六角との敵対』を選択したということであり、同盟関係の崩壊を意味している。冨樫泰俊は早急に江沼郡との境における防備を固めるよう指示を出し、両者の関係は急速に冷え込む結果となった。


 朝倉館を占拠した景高は、阿諛追従の輩が雲霞の如く押し寄せることだろうと皮算用していた。身分が自分よりも劣る人間に媚び諂われることが、肥大化した承認欲求を満たす何よりも大きな快感であったからこそ、その未来を夢想しては笑みを浮かべるばかりだった。


 だが、それが現実となることはない。元々景高陣営の足並みは揃っておらず、傘下ではなく協調というのが正しかった。そのため、それらの意見を聞くことなく、浅慮にも当主の暗殺を決行したことに不信感がつのるのも当然と言えよう。


 大野郡司の地位を失ってから動かせる兵の規模も大幅に縮小され、陣営の協力無くしては政権の掌握は程遠い現状となっており、景高にとってこれは致命的だった。


 加えて朝倉宗滴が健在であり続けているという点も大きい。それほどまでに宗滴の求心力は抜きん出たものであり、それを察した景高は家中は全く纏まる気配を見せないのは、宗滴が生きているからだと判断し、早急に判断を下す。


 景高にとって六角を攻めることや冨樫との同盟関係解消といったことなどは些細な事であり、全ては朝倉家中における実権掌握のために動く意思に囚われていた。その意思はもはや怪物と形容するほどに膨れ上がっており、周囲の静止に聞く耳を持つことはない。


 元の手勢と陣営の中でも特に景高を支持していた者に、朝倉孝景の保有していた戦力の一部を加え、5千の兵を率いた景高は宗滴のいる美濃国郡上郡に向けて兵を進めた。


 一方の宗滴は、郡上という今後の美濃進出には欠かせない重要な土地ではあったが、防衛に関しては後詰を送れば十分に可能だという判断から多くの兵を置くことはなかった。そのため、7百ほどが現状の保有戦力となっている。


「奴の謀反は想定された内の最悪の事態ではあったが、実の兄を手に掛けるなどとは愚かな。先行きを見定めず、衝動的にこの皺がれ首を獲りに来るというのも愚かこの上ないわ」


 宗滴が景高を指して『愚か』と形容した回数は軽く二桁では留まらない。侮蔑の感情を常に内包した言葉を普段から向けていたが、この時の宗滴はそのどれよりも強く孕んだ言葉を発した。


「いかがなさいますか」


 遠藤六郎左衛門盛数が額に汗を浮かべながら尋ねる。盛数はかつて、景高から郡上郡を守るために東常慶と連携し、景高の背後を突いた。しかしその後、同族である宗滴によって容易くあしらわれた結果、一度裏切った負い目から身の置き場が無いと感じ、郡上からの退去を決断している。

 だがそこに宗滴が待ったをかけ、盛数を重臣に引き入れた。盛数は郡上の地理にも詳しく、美濃の国人との人脈もあり、慕う者も少なくない。加えて武力や智謀にも長けていることから、宗滴は必ずや役に立つと見たのである。その慧眼に狂いはなく、盛数は宗滴の参謀として支えていた。


「孫九郎は身動きが取れぬだろう」


 敦賀郡司の養子・朝倉景紀は西の若狭に細川が控え、北東の南条郡燧城には親幕府派の魚住景栄がおり挟み撃ちの状態に陥っている。魚住もこの景高の動きには派兵しておらず、有事となってもすぐに兵を動かせるため、景紀は身動きが取れない状態だった。


「細川は厄介な男を味方に引き入れましたな」

「もはや細川の御家芸とでも言うべきか。役立つと見れば一揆であろうと欲の皮を被った男であろうと平気で使おうとする。それによって痛い目を見ようが平気な顔で見切り、次の手札を探すのじゃ」


 いつもの事だと平然とした様子で鼻を鳴らす。宗滴は主君を殺された事実に怒りを覚えつつも、その怒りが冷静な思考をかき乱す種になるのだとよく知っていた。


「しかし思うたよりも奴は味方を多く付けた。まとまっているとはとても言い難い烏合の衆じゃがな。だが、なりふり構わず、あらゆる手段を以て、己の目的への到達を志すその根性だけは見上げたものだと褒めておこう」


 その言葉に感情は帯びておらず、冷徹な口調であった。

 景高陣営は有力家臣が参画している。その事実が孝景の下についていた将兵の多くを一乗谷に残す判断に導いた。逃げた者にはいずれ厳罰が下るという脅しにも似た言葉を投げかけたのも助けたことだろう。景高には力があると思い込まされ、麾下に残る決断を下した者が多かった。


「冨樫の小次郎殿のようになぜ兄の意志を汲み、支えようとは思わなんだか」


 ため息が満ちた直後、盛数の呟きが宙を舞う。


「……冨樫」

「冨樫に救援を依頼すべきと申すか?」

「いえ、冨樫を頼るには障壁がございまする。朝倉領内は依然、親六角派と親幕府派……、即ち反六角・冨樫勢力が入り乱れており、此方が朝倉領内に侵入するよう頼んだとて、逆に親六角派の反感を買い、戦を招く結果になる恐れが大きいでしょう」


 味方であった者すらも敵に回るリスクを冨樫が侵せるはずもない。冨樫への救援要請は非常に難しいものだった。


「その懸念、尤もであるな。とはいえ冨樫に救援を要請すれば、兵は派兵できずとも物資は期待が出来よう。至急冨樫に文を送ってくれ。ついでに六角の靖十郎殿にも同じ文面で此方の状況を伝えるのだ」

「はっ、承知いたしました」


 如何にして迎撃しようか、と宗滴は瞑目する。兵力の差は歴然。それでも景高の能力を正確に見定めていた宗滴にとって、苦戦はすれど郡上を失陥するなどあり得ない話であった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る