北畠の岐路

「百地殿。一つ貴殿に訊ねたいことがあった」

「ん、何か?」


 闇夜の中、山中の獣道を足音を殺して進む一つの小部隊があった。それを率いる百地清右衛門正永と田屋趙犀庵磐琇は、互いに視線を向けることなく、あくまで正面を向きながら徐に小声で会話を始める。


「袂を分かったとは言え、かつて南伊賀は北畠を頼っていた。此度の北畠への反抗に思うところがあるのではないか?」


 百地正永は南伊賀の纏め役として、精力的に活動してきた。そして階級意識の強い北畠家との間を取り持ち、膨れる不満も上手くガス抜きすることで維持している。元々小さな土豪の集まりでしかなかった伊賀衆の中で、百地が南伊賀でその地位を確立できたのは、少なからず北畠の後ろ盾があったからこそでもある。

 

 だから北畠に情が湧いてもおかしくはない、もしくは北畠の間諜として内情を探らされているのではないか、と磐琇は懸念したのだ。主君の靖十郎は百地に二心はまずないと考えてはいたものの、磐琇はその可能性を捨て切ることができてはいなかった。

 

 しかし、冨樫家の統治がどれほど優れたものであったか。わずか一年で北伊賀の変貌ぶりを見せつけられたのだから、正永でなくとも伊賀の民であれば心が揺れ動くのも無理はない。一方の南伊賀では不作でも北畠からは何の施しもないまま重い税を課せられ、それは滝野や布生の対立を発端とした小競り合いに発展し、結果として北畠に背を向けざるを得ない状況に追い込まれたのだ。


「無論、北畠に思うところはある。されどそれ以上に左近衛権中将様の御恩に報いるために働きたいと、心よりそう思うたのだ。何故かは伊賀の民ならば言わずとも分かるであろう?」


 冨樫家は実質的な両属状態を認め、民が食い繋ぐために必要な援助を一切惜しまなかった。その上で極秘である石鹸などの技術を提供し、伊賀で特産品の生産を推し進めたり、迅速な商業圏の形成など、豊かさを醸成する基盤を作り上げている。それだけでも正永にとって心酔するに値したが、靖十郎は領内に素破に対する差別を禁止する触れを出したほどの仁君である。正永にとってこれ以上ない主君であることは言わずとも明らかであった。


「違いない」


 その思いは田屋磐琇も同様だった。磐琇は冨樫の伊賀侵攻にいち早く従ったことで譜代の重臣と同等の地位を得ている。そして壬生野城が居城の田矢城から目と鼻の先であることもあり、常に靖十郎の間近で仕えていた。だからこそ、正永の気持ちは誰よりもよく理解できたのであった。


「この御恩に報いるためにも、左近衛権中将様に直接命じられたこの作戦は成功させねばならぬ」

「左様であるな」


 正永の忠誠が本物であると確証が得られたことに、磐琇は満足げな様子であった。朧夜の下、再び沈黙が漂う。


「申し上げます。霧山城はこちらの動きに全く気付いておらぬ模様にございまする」


 名張から南に進み、東に折れて霧山城に近づきつつあった二人の下に斥候が訪れ、冷静沈着に告げた。


「霧山城の重臣は麓の館におるな?」

「はい、霧山城は無人に近い状態かと存じまする」

「ならば都合が良いな。すぐに霧山城を焼き討ちするぞ」


 磐琇は靖十郎から小壺を幾つも渡されたが、その用途と効果を教えられて初めてそれが強力な武器であることを知った。そして使用する際には威力が高すぎるために、城攻め以外の場面においては人の殺傷にむやみに使わぬよう、言いつけを授かっている。あくまで霧山城を焼き討ちするための城攻めの道具だと念押しされていた。


 多気御所のある霧山城城下とは反対側の城壁に辿り着いた伊賀衆の部隊は、息を潜めて二人の指示を待つ。そして予め決めていた合図である鈴の音が鳴ると同時に、紅蓮の炎は瞬く間に城内に燃え広がっていった。







「何、霧山城が急襲されただと!? 多気御所は無事なのか?」

「はっ、左様にございます。幸いにも城下の多気御所は無事とのことにございまする!」


 霧山城が夜襲を受けてから二日目の朝、青ざめる伝令兵の姿から、嘘偽りはないと判断した北畠晴具は不愉快そうに眉を吊り上げた。


「一体どこの手の者だ。大和の国人か? いや、あ奴らがここまで早く攻めてくるとも思えぬが……」


 大和は元々守護職を務める興福寺に従う形で衆徒の武士団が力を持ち、その中で特に有力者であった筒井と越智が応仁の乱を契機に陣営を分けて争い合ったことから、溝の深い対立関係となっている。そして表向きは恭順している他の国人衆も漏れなく離合集散を繰り返していたが、こと外敵には協力して当たるのが暗黙の了解であり、数年前に一向一揆が攻め寄せた際にも筒井と越智は協力して戦っている。しかし、それ以外では基本的には領地を巡って相互に牽制し合う険悪な関係であった。


 そのため晴具も大和に対して長年圧力をかけていたことから、大和の国人衆の戦力の矛先がこちらに向いてまとまって攻め寄せてくることを念頭に入れつつも、意思決定にはかなりの時間がかかるはずで、こうも早く協力して南伊勢に攻めてくるのは余りにも不自然だと、晴具が考えるのも至極当然のことであった。


「それが不明との由にございまする。封鎖していた初瀬街道にも敵兵らしき姿はなかったとのこと」

「不明? 物の怪の類ではあるまいし、はっきりせぬはずはなかろう」


 晴具は己の中に積もりつつあった苛立ちを圧縮し、怒りを面に出すことはなく、あくまで沈着な面持ちで言葉を紡いでいく。


「真夜中に突如として霧山城に火が燃え広がり、気づいた時には誰の姿もなかったと……。霧山城には少数の見張りしか残っておりませんでしたが、その者らに問い質しても分からないの一点張りにございました」

「雷でも落ちて勝手に燃えたとでも申すつもりか!」

「い、いえ。決してそのようなことは……」

「……いや、むしろ誰の姿もなかったというのが手掛かりやもしれぬ。人目につかずに城を焼き討ちするとなれば……、やはり素破か。となれば伊賀、冨樫の仕業と考えるべきか」


 伝令兵は晴具の威圧感に怯んで息苦しさすら感じているのか、言葉が頻繁に詰まっている。周囲にいたはずの家臣も口を挟めぬ程の迫力で、霧山城の急襲という衝撃よりも畏怖の念が大きくなっていた。


「本拠を襲われたとなれば戻らぬ訳にも行くまい。されど、これは長野城攻めから我らを退かさせるために仕掛けた冨樫の策略と思われる。このまま全軍を退いては冨樫の思う壺であろう。星合黄門!」

「はっ!」

「我らは二千の兵を率いて霧山城に撤退する。そのように伝えよ」

「承知致しました」

「残った者は引き続き長野城攻略に全力を注ぐのだ。伊賀の国境にいる冨樫の本隊も長野城が猛攻を受けていながら動く気配はない。現時点では冨樫は後方支援に徹して様子見していると見るべきであろう。これは好機である。長野を破れば一気に北伊勢を切り崩せよう。しかし冨樫がいつ動いてもおかしくはない。常に注意を怠るな。決して油断はせず、愚直に事に当たるべし。良いな!」

「「「「はっ」」」」


 重臣らが気合の帯びた野太い声を山間に響かせると、唐突に口許を歪めた。


(これが我らを撤退させるための冨樫の差し金ならばまだ良いが……、もし我らの戦力を分断させるのが真の目的だとすれば、長野に残した兵を叩くつもりか。非常に拙い。冨樫の狙いが読めぬわ。不気味な男よのぅ)


 靖十郎が極力北畠と直接相対しないつもりでいる、という考えは晴具にとってあり得ない想像である。あくまで将兵の士気を維持するため、そう思わせた方が好都合という晴具の考えであった。


 晴具はすぐに長野城攻めの本陣を発つと、二千の兵を率いて急ぎ本拠・霧山城へ帰還の途に就くのであった。

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