八知の落日

「うむ、足労であった」

 

 北畠軍が一昨日の昼に長野城を発ったという報せを配下の素破から受けた俺は、読み通りの展開に内心で安堵の息を吐いて微かに緊張を解かしながらも、笑みを浮かべることなく冷静な態度に努め、周りの家臣により一層気を引き締めるよう促していた。


 冨樫軍の別動隊が息を潜めているのは、一里半ほどで霧山城へと通ずる八知という山間の地であった。爽やかで澄み通った谷川のせせらぎに、魚が跳ねて着水する音。決戦を前にしているとは思えない長閑さだ。心が波立つのを抑え切れず、肺の辺りに圧迫感を感じた俺は、縹渺たる彼方をジッと見つめた。逢魔時の赤黒い夕陽に反射して光る山中は、迫りつつある闇夜の不気味さを演出している。


「殿、来たようです」


 半蔵の消え入るような声に身が引き締まる。しばらくすると馬の蹄が土を蹴る地響きに続いて、大勢の人の足音が近づいてくるのが分かった。半蔵は人間離れした卓越した耳を携えている。今はその能力に驚いているほどの余裕はないが、感心の気持ちが漏れ出るように吐息が出た。


 当初の予想通り、北畠軍は狭い山道に隊列が長くなっている。北畠晴具と思わしき人物を見つけるべく、目を凝らして騎馬の将を探る。本来、馬の脚はもっと速いのだが、早足で歩き続けて疲労困憊の歩兵が前後を挟んでいて速度を落とさざるを得ないため、俺の目でも楽に追うことが出来た。


「「ぐわぁぁぁっ!!!」」

「ヒヒーーン!」


 突如として馬のいななく声とともに将兵の痛みでつんざくような悲鳴が北畠軍の前方から挙がる。狭い道の途中に掘った幾つもの落とし穴に落下した騎馬と、両側の斜面から転がした丸太で先頭部隊が大きく撹乱されたのだ。


 霧山城まで後少しとなって気が逸ったのか、それとも陽が山の稜線に沈んで視界が悪くなるのを焦ったのか、行軍はかなり早足になっていた。それゆえに先頭部隊が急停止したことによって後続部隊が勢い余って衝突し、転落する玉突き事故状態となる。さらに、道には毒を塗った菱の実が敷き詰められており、倒れ込んだ将兵は大きな痛手を負う。 


 その声を合図として道の両側に身を潜めていた冨樫軍が投石紐(スリング)を使って一斉に礫を放つと、さらには弓矢で北畠軍の将と思しき騎兵を襲っていく。俄かには受け入れられない状況に、北畠軍の時間は停止した。










 突然冷や水を頭上から浴びせられたような感覚を覚えた。決して油断などないはずだった。しかし、あと半刻で霧山城に着くところで日没となり、心のどこかに焦りを生んでいたのに気づかなかったのである。晴具は自分の迂闊さを呪う。


(まさか、冨樫は最初からこの儂の首を狙っておったのか!)


 直感的に冨樫軍の奇襲だと断定した晴具は、冨樫軍の真の狙いに初めて気づき震撼する。長野峠にある本隊が動かないことにばかり意識がいって、別働隊が動いている可能性を思考から排除していたことを悟ったのだ。


「ふっ、ふはははっ。面白い、まっこと面白いわ! だが、この首、簡単にくれてやるわけには行かぬ」

「宰相様?」


 突然昂揚する主君の戦意に、隣で呆然と見ているしかなかった星合親泰は瞠目した。本来ならば青褪めて狼狽してもおかしくはないほどの窮地なのに、晴具は"笑っていた"のだ。まるでこの状況を楽しんでいるかのように。


「狼狽えるな! 恐れることはない! 冨樫の兵は多くはないぞ! このような小賢しい奇襲をせねばならぬのは冨樫の兵が少ないからだ。伊賀の卑しい雑兵に我ら精強な北畠兵が敗れる道理はない!」


 カリスマとも言うべき圧倒的な存在感、そして言葉巧みに将兵の心を掴み、勇気を奮い立たせる人心掌握術。それが北畠晴具の『英主』と称えられる所以であった。恐慌を来していた戦場に響き渡る晴具の声に、動揺して冷静さを欠いていた中陣の将兵は、数は決して多くはないながらも高い戦意を纏った強固な部隊となって団結していく。


「我らは勝つ! 決して負けぬ! 不死鳥の如き、強き兵である! 冨樫の弱兵を一人残らず討ち取るのだ!」


 そこには普段の冷静沈着な公家大名の面影はどこにもなかった。汗で乱れた髪をかき上げて、晴具は白い歯を見せる。


(やはり儂には公家などという偽りの仮面は似合わぬようだ)


 晴具は改めて思う。自分は戦が好きだったのだと。そして誰よりもこの逆境を楽しんでいるのだと。


 晴具は幼い頃より南北朝時代の北畠家の英傑である北畠顕家に強く憧れていた。顕家は源義経と並ぶ天才軍略家とも言うべき名将であり、その武威と功績は北畠家の誇りとして脈々と語り継がれてきた。


 父である材親からは尊い血筋を持つ名門の次期当主としての自覚を持つように諭され、和歌・連歌・茶道・能書など、公家としての品位を磨くことに努めてきた。しかし、心の奥底では父の教えに反発し、顕家の後ろ姿を追って、剣術や馬術、弓術、兵法など、戦で必要な能力を磨くことを劣らなかった。そして国内外でその才覚を認められた晴具は、『英主』と呼ばれるまでに飛躍を遂げたのだ。


 だが本来の晴具は、気炎万丈な剛将である。晴具自身それを心のどこかで自覚していたものの、これまでは表に出す機会はなかった。そして今、誰もが剛将たるその勇姿に圧倒され、勝利への希望を抱いた。


「狙うは敵大将の首、ただ一つ! 皆の者、突撃せよっ!!」


 晴具は腹の底から沸々と湧き上がる強靭な闘志を原動力として、自ら腰に携えた太刀を掲げて愛馬に鞭を入れる。強兵となった将兵を引き連れて。







 これほどの窮地に陥ってもなお、北畠晴具がここまでの底力を見せるとは、さすがに靖十郎も予想だにしていなかった。北畠軍は大半が農民兵であり、本来ならば逃げ出して既に瓦解してもおかしくはない状況だ。しかし北畠軍は一時の混乱から立ち直り、踏み止まっている。靖十郎は異様な寒気を感じずにはいられなかった。


「殿、北畠宰相がこちらに向かっておりまする」

「ああ、あれほどの気迫とは、恐るべき男だ」


 斜面の上からでは木々が遮って戦況を見通せないため、靖十郎自身が少し前方で戦闘を見守っていたのが仇となった。既に山間に落ちた闇の帳は濃く、靖十郎のいる位置など把握できるはずがないのだが、北畠晴具はまるで靖十郎が"ここにいることが分かっているかのように"一直線に向かってきていた。


「まさしく野生の勘、だな」


 靖十郎の口から思わずそんな言葉が漏れ出るほど、晴具の嗅覚は抜きん出ていた。


「怯むな! 戦え! 命を惜しむな、名こそ惜しめ!!」


 靖十郎の耳に晴具の檄が聞こえてきた。一対一で相対したら、靖十郎が動く前に首を落とされている。そんな嫌な想像が靖十郎の胸中に渦巻くほどだった。

 

 実際に反撃している北畠軍の将兵は僅か三百ほどであるのに対して、遠距離攻撃に徹していた冨樫軍に損害はなく、一千の兵を残していた。それでも冨樫の優位を感じさせないほど、北畠の狂戦士ぶりは突出していたのだろう。

 

 しかし、その精強な戦士達も不死身ではない。一日行軍してきた疲労に加えて、兵数の差と山の斜面の下にいる地形的な不利により、刻一刻とその数を減らされ追い詰められていく。北畠軍の勢いは目に見えて減衰していった。


「今だっ! 畳みかけろ!」


 機を逃さず、沓澤玄蕃助の檄が飛ぶ。冨樫軍の勢いも大きく押されるほどではなかった。北畠軍の勢いが弱まりつつあるのを見て、戦功を競うように槍を片手に血気盛んな様子を見せる。


(ここが我が死地となる、これも定めか)


 晴具は死期を悟っていた。それでも自らの運命に抗うかのように無心で刀を振るう。飛来する弓矢をも刀で跳ね除け、一騎当千の勇猛ぶりを見せていた。


(もう少しこの人生を謳歌したかったが、致し方あるまい。公家らしからぬ姿を見せてしまったわ。父上にはあの世で怒鳴られるであろうな。だが最後の最後で顕家公に近づけたと喜ぶべきか)


 晴具の心に悔いは残っていなかった。不意を突かれたとはいえ、強い敵と最後まで打ち合えたことを心の底から楽しんでいたからだ。晴具は改めて自分の本質は武人であることを痛感し、内心で苦笑した。


 そしてしばしの後、晴具は寄せていた工藤兄弟の弟である工藤延長によって左胸を槍で貫かれ、微かな呻き声を上げた。晴具の身体が馬から崩れ落ち、地面に叩きつけられる。北畠軍の壊滅が決定した瞬間であった。


「北畠宰相、工藤源左衛門延長が討ち取ったりぃぃ!」


 山間に響き渡ったその声は、冨樫軍の勝利宣言であった。数瞬の沈黙の後、闇を切り裂くような怒号にも似た歓声と雄叫びが響き渡る。


(北畠宰相殿、貴殿こそまさに真の武人であった)


 靖十郎は喜びを表に出すことはなく、静かに瞑目したまま合掌して一人の名将の死を悼み続けた。

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