凋落の端緒

「ぶはっ、げほっ、げほっ」


 冷たい谷川の水流に抗いながらようやく空気を得た身体は、多量の水を飲んで重かった。戦場を命辛々脱した星合親泰は、周囲に追手の姿がないのを確かめると、ようやく安堵して岸に這い上がり、木陰で脱力して横臥する。体中に傷の痛みが走るが、そんなことは眼中にはなく、親泰はこれからのことに思いを巡らせていた。


 (よもやの敗北で無様にも落ち延びてしまうとはな)


 自分の悪運の強さに嘆息する。主君である北畠晴具のやや後ろで控えていた親泰は、主君と共に命を捨てる決死の覚悟であり、恐怖を感じて逃げたわけではないのは言うまでもない。晴具から北畠家の未来を託されたからに他ならなかった。


(北畠家の嫡男はまだ幼い。となれば宰相様の御言葉どおり、儂が後見せねばならぬ)


 先代当主・北畠政郷の三男で晴具の叔父である親泰は、以前は分家の大河内家を継いで大河内頼房と名乗っていた。大河内家は北畠一門で田丸・坂内と並んで三御所と呼ばれる重鎮の筆頭格であり、北畠宗家と度々対立していた木造家の伸長を抑える役目を担っていたが、一時断絶した大河内家を継いだ次兄の親忠が嗣子がないまま病死したため、親泰が大河内家を継いで晴具の右腕として忠勤に励んできた。


 その後、大河内家の家督を次男に譲った親泰は、元々居を構えていた星合の地で新たに星合家を興したが、北畠家を興隆させ、晴具の権威を高めたのは紛れもなく親泰の補佐があったからこそである。そのため親泰は最後の突貫を仕掛ける直前に晴具から「木造家の造反を抑え、幼い嫡男を後見できるのは親泰以外にはいない」と後事を託されたのであった。


(しかし、無様なものだ)


 親泰は北畠晴具という大樹を失った傷の深さを堪えるように苦悶の表情を浮かべていた。周囲に敵の姿はないが、味方はおろか側近の姿も見えない。戦場を離れる際、親泰自身はすぐさま鎧を脱いで身軽な格好で川に身を投じたのだが、おそらく側近達は重い鎧兜を身に纏ったまま川に飛び込み、川に流されて溺れてしまったのだろうと推測した。


 はたしてこの状態で無事に居城まで戻れるかすら危うい苦境にも関わらず、親泰の目は不撓不屈の眼光を放っている。確かに敗北感こそ去来してはいたが、親泰の胸の内に諦念の闇は全く侵食してはいなかった。








「まさに鬼神のごとき気迫でしたな」

「うむ、危うく命を刈り取られるところだったわ」


 俺は冗談混じりに半蔵に苦笑してみせる。血生臭い異臭の漂う暗闇の戦場に、僅かばかりの弛緩した空気が漂った。


 北畠家の最大の強みは『英主』と称えられる北畠晴具の存在だった。北畠家は晴具を求心力として家中を結束させ、伊勢国司として勢威を誇示していたが、その反面、その大黒柱を失えば一気に倒壊する危うさも秘めていた。しかし、晴具が俺に降伏臣従するなど万に一つも考えられない。長野城を救うだけならば北畠軍を撤退させれば事足りるが、それでは奪われた安濃津は奪還できない。臣従した長野家の忠誠を得るためには、安濃津を奪還するのは冨樫家にとって至上命題だった。


 たとえ長野勢が北畠軍の攻勢を耐え抜き、田植えによる時間切れで北畠軍が撤退したとしても、北畠がせっかく奪った安濃津を易々と放棄するはずもなく、峯治城や家所城にそれなりの数の守備兵を残していくはずだ。そうなれば奪還するためには城攻めで少なくない兵が犠牲となるだろう。


 そうした状況を勘案した俺は、総大将である晴具を討つことがこの戦に勝利するための最適手だと考えた。それに、いずれ南伊勢進出を狙う俺にとって、最大の障害となる晴具を排除するには又とない好機でもあった。


 しかし冨樫軍は北畠軍に兵数で大きく劣っており、寡兵で大軍に勝つ策略を編み出す必要があった。そこで俺は史実の「桶狭間の戦い」を参考にした。


 戦力で今川軍に圧倒的に劣る織田信長は、奇襲で今川義元を討ち取る以外に生き残る道はないと考えた。そのために細長い山間にある桶狭間の地に誘い込んで、本陣の義元を強襲することを計画したのだ。そして桶狭間の地に誘い込むために、今川方の鳴海城と大高城を砦で囲んで補給を断って囮とし、義元が救援に向かうように仕向けたわけである。


 俺は史実の件は伏せつつ軍師の山本菅助と相談し、北畠晴具を討つべく桶狭間と同じく細長い山間である八知を決戦の地とする決断を下した。八知は多気御所と霧山城の一里半ほど北にある街道沿いの地だ。平時ならば東の平野部を通る可能性もあっただろうが、一刻も早く本拠地に戻らなければならない緊急時では最短ルートの八知を通るはずだ。その八知の地に晴具を誘い込むために、北畠の本拠である霧山城を焼き討ちさせて囮にしたというわけである。焼き討ちに使ったのは、遠江の相良で手に入れた臭水で作ったナパームの焼夷弾だ。


 さすがに本拠地が襲われて当主が帰還しないわけにはいかず、狙いどおり晴具は慌てて兵を率いて撤退した。ただ全軍ではなく、長野城に兵を半数以上残したまま少人数の部隊で撤退してくれたのは嬉しい誤算だった。晴具は俺の狙いが長野城の救援と安濃津の奪還だと考えたのだろう。まさか自分の命こそが真の標的だとは思わなかったはずだ。


 しかし、奇襲で劣勢に立たされながらも瓦解せずに、すぐに態勢を立て直して反撃する底力には畏れ入った。やはり北畠晴具を討つという戦略は間違っていなかったと実感し、安堵したものだ。もし晴具が生き残っていたら、北畠は何度でも蘇ったことだろう。


 晴具の討死を知れば、長野城攻めを続けていた北畠軍も今回の侵攻作戦は失敗だと諦め、即座に兵を退くはずだ。もちろん家所城や峯治城に少しは守備兵を残すだろうが、田植えも近いため農民兵を領地に帰し、南伊勢の守りを固める方が先決だと考えるだろう。

 

 長野峠に布陣する冨樫軍本隊を任せた菅助ならば、撤退する北畠軍をみすみす見逃すはずはない。さほど苦労せずに家所城や峯治城を落とし、安濃津を奪還するだろう。冨樫一門の坪内綜讃の孫・坪内藤七郎嗣定が婿入りした長野工藤家には、引き続き安濃郡を任せるつもりだ。

 

 だが北畠晴具を討ったからと言って、さすがに現状の富樫家の戦力では追撃して南伊勢に攻め入って制圧するほどの余力は残っていないため、安濃郡を奪還したら今回の戦は終結だ。次は北伊勢に六角が攻め入り、晴具の後ろ盾を失くした北勢四十八家を刈り取っていく番だ。

 

 一方、晴具の死により北畠の凋落は決定的なものとなった。嫡男の具教はまだ十歳だ。北畠家中は具教を傀儡として実権を握ろうとする者、独立しようと謀反を企む者、所領安堵のために俺や六角に寝返ろうとする者など、家臣たちの思惑は大いに乱れるだろう。特に主家に反抗的な木造に調略を仕掛ければ内応するかもしれない。北畠はまだ幼い具教を担いで、どのように立て直しを図るのだろうか。

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