忍び寄る戦雲

 甲斐からの帰還後、早速ワイン造りに取り掛かった。十一月には試作品第一号を家臣に振舞ったところ案の定と言うべきか、不評な声が相次いだ。赤ワインの作り方で作ってしまうと渋味が強く、また米の酒に慣れた日本人の味覚には酸味も強く感じられて、美味しいとは言い難い出来となった。史実でもワインは洋食文化と共に広まったから、やはり日本食とは今一つマッチしないのだろう。


 蜂蜜を加えて酸味を消せないかと試行錯誤してみたものの、結局特有の渋味が拭えず、製法から見直すことにした。赤ワインは黒葡萄の果実を房ごと潰したものを樽詰めして発酵させるが、黒葡萄からも白ワインが作られることを考えると、やはり発酵させる前に果皮を取り除く必要がありそうだ。今年はもう葡萄がないので来年まで我慢するしかないが、美味しくない試作品とは言え、せっかく出来たワインを捨てるのはもったいない。そこで、鍛冶職人に命じて蒸留器を作らせ、ブランデーを作ってみることにした。日本の酒よりもアルコール度数が高くなったので、樽で熟成させて美味くなれば売れるかもしれない。


 葡萄の苗木は定着してから実を成すまで二年は要するようなので、ひとまずは甲斐から定期的に葡萄の実を仕入れる形を整えることとした。


 それと葡萄だけでなく、ついでに領内に自生していた和リンゴを使い、ワインと同じ製法で果実酒を作ってみたが、ワインほど渋味もなく悪くない味わいだったので、蜂蜜を加えて酸味を抑えたことでようやく家臣から太鼓判を受けるに至り、近いうちに売り出そうと考えている。


 そうしてワイン造りを進めるうちに年が変わり、天文六年(一五三七年)になった。そして松の内の微かに浮ついた空気が冷めやらぬ一月中旬、北畠の使者を名乗る男が少数の兵を引き連れて壬生野城にやってきた。


「拙者は北畠家臣、星合中納言と申す」

「冨樫左近衛権中将と申す。此度は北畠家の使者殿が如何なる御用件にございますかな?」

「ふっ、冨樫殿ほどの御方ならば察しは付いておられるであろう?」


 その使者は従三位・中納言に任じられる程の北畠の重鎮である星合中納言親泰であった。北畠晴具の祖父・右近衛権中将政郷の三男であり、北畠家の軍将に位置付けられ、南伊賀の諸勢力を与力として数々の武功を挙げているらしい。国司家伝の天蓋の馬印まで授かるほど、晴具からの信頼は篤い。既に嫡男に家督を譲っているようだが、北畠家中での影響力は大きいものがあった。そんな重鎮が単身乗り込んでくるとは、予想だにしていなかった出来事に身が締まる。


「皆目検討もつきませぬな。それより中納言ともあろう御方が、単身このような場所にお越しになるとは驚き申した」

「ほほほ。此度はお願いに参ったまでよ。当家が治める南伊賀には手出し無用との願いじゃ」


 目を細めて不敵に笑う親泰はもう齢六十に近いが、未だ矍鑠として眼光の鋭さを感じる。南伊賀が密かに冨樫に臣従していることは、家中でも常識になっている。やはりいつまでも隠し通すには無理があったようだ。


「ほう。当家が南伊賀に手を出していると仰るのですかな?」

「左様。違いますかな?」


 俺は頷くことも首を振ることもせず、真っ直ぐその瞳を見つめた。


「南伊賀の米の収穫が目に見えて増えておる。これは紛れもなく冨樫家が南伊賀に介入している何よりの証拠ではござらぬかな?」

「さあ、当家の所領は南伊賀と隣接しておるゆえ、我らの真似をしているのではありませぬかな? もし南伊賀の米の収穫が増えたのならば、北畠に納められる税も不作だった昨年よりもさぞや多く納められたのでしょうな」

「無論、南伊賀からは昨年よりも多い税が納められ申した。だがそのような詭弁が通用すると思うてか?」


 場が冷え込んだ。こちらの思惑は全て露見している。ここから誤魔化そうとするのは厳しいだろうな。


「聞くところによれば、昨年の不作の折に北畠家は困窮する南伊賀の民に何の施しもせぬどころか、税は減免せずに毟り取るという非情な統治をされたと聞く。もし中納言殿の仰る通りだとして、南伊賀の民がどこに従うかは、南伊賀の民が決めるべきことであると存じますが、いかが思われますかな?」

「……」


 親泰は鋭い眼光でこちらを射抜くが、ヤクザと同じくガンの飛ばし合いで怯んで舐められる訳にはいかない。背中を嫌な脂汗が伝うのを自覚しつつも、平静を装って反撃の言葉を告げる。


「私は伊賀守を叙任される際に帝から『伊賀の民を安んじ、伊賀の地を豊かにせよ』との御言葉を直々に賜っておりまする。公家である北畠一族の中納言殿が帝の御言葉の重みを理解できぬはずはございますまい」

「……ふっ、年端も行かぬ若造に然様な理屈を突きつけられるとはな。だからといって当家とて黙って見逃す訳にも行かぬ。どうやら長野工藤と手を結んだようだが、それもいつまで保つかな?」


 伊賀の冨樫家は六角の客将という立場にあり、冨樫と敵対することは即ち六角と敵対することに直結するため、北畠としては現状は手を出しにくい。だが伊賀に通じる伊賀街道には長野領があり、南伊賀への影響力を一定以上保持するためにはここを攻め取る必要がある。しかし長野は工藤兄弟の橋渡しにより冨樫と同盟を結んだ。そのため親泰は冨樫ではなく、長野への侵攻を示唆して脅かしたわけだ。今すぐ冨樫と表立って刃を交える気はないが、そっちがその態度ならこちらも自由にさせてもらうという意思表示だろうな。さすがは老獪な古狸といったところか。


「先ほどまでは公家らしい言葉遣いであったが、どうやら貴殿の武士らしい本性が表れたようですな。では最後に一言申しておこう。この左近衛権中将、帝の御言葉に歯向かう者はすべて朝敵と見做し、討ち果たす覚悟にございまする。それをゆめゆめお忘れなきよう」

「……」


 表情は左程変わらなかったが、代わりに奥歯が微かに軋む音が耳に届いた。


 この調子だと、冨樫を間に挟んで北畠と六角の水面下での対立は深まりそうだ。半ば脅すような親泰の言葉に黙っていられず、俺は動揺を表に出すのを堪え、気力を振り絞って断固たる報復の決意を告げた。冷や汗が止まらない。なんとか乗り切ることができただろうか。虚勢だとバレているかもしれない。早鐘を打つ胸に俺は問いかけた。








「やはり冨樫は南伊賀に手を出しておったか」

「否定する様子は一切ありませなんだ故、まず間違いないでしょう。もはや南伊賀は税を納めますまい」


 多気御所にて親泰から報告を受けた北畠晴具は、鬱屈そうに脇息に肘をついて長く息を吐く。元々冨樫が素直に非を認めて南伊賀を返すとは思っていなかったからか、そこにさほど落胆の色はなかった。もっとも平然と冨樫への従属を隠していた南伊賀の諸勢力に対する失望感は表れているが。


「冨樫の背後に六角が控えておるからには、これ以上の伸長は抑えたい。長野と手を組んだのは、北伊勢への影響力を得ること、そして長野を圧迫する北畠に対する牽制の意味もあるのであろう」

「となれば、早々に長野を攻め滅ぼさねばなりませぬな」


 このまま放置していては、いずれは長野工藤を飲み込み、北伊勢と北畠領を分断する最前線として機能し始める危険もあるため、一刻も早くその芽を摘み取るのは最優先事項であった。


「六角も北伊勢を虎視眈々と狙っておろう。冨樫もそうだが、北伊勢も問題だ。梅戸に一族を送り込んでから、北伊勢はまとまりを大きく欠いた。ここで千種や神戸、川俣に梅戸を攻めさせるのも良かろう」


 北勢四十八家の筆頭格で、北畠の客将として遇されていた千種治清は、六角の傘下に入った梅戸に敵愾心を抱えており、以前から領境で小競り合いが頻発している。そうした対立関係を北畠は当然把握しており、六角の圧迫が顕著になりつつある北伊勢での優位性を確保しようと目論んでいた。


 そして北畠から妻を娶った神戸家の先代当主・神戸為盛が男子に恵まれず、北畠から養子に入った現当主の神戸具盛や、その具盛の娘の嫁ぎ先で楠木正成の末裔でもある川俣忠盛などを使うことにより、北畠は直接兵を送ることなく六角を牽制する腹積りであった。


 かくして北畠と六角、その双方の腹の内の読み合いは徐々に混沌として、風雲急を告げることになる。

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