川島の戦い①
天文七年(一五三八年) 10月上旬
「六角軍、桂川を渡河し、下桂村の南に布陣し直したとか」
「ほう、六角は我らに桂川を渡らせて相対することを望んでいると見ておったが意外だな」
そのためには細川軍をそうせざるを得ない状況に仕向ける必要がある。故に六郎は背後に相当な警戒を敷いていた。
当然三好が挙兵の準備を終えている情報も入ってきているが、もし三好が裏切るのならば先んじて背後を取るはずだと考えていた。しかし三好は一切その動きを見せない。六郎は三好が日和見で戦況を見極めて、有利な方に参陣する腹積りなのだろうと判断する。
ただ疑り深い六郎は三好の動きを逐一報告させつつ、離宮の南に本陣を構えた六角との対峙へ意識を移していく。
細川は晴れて視界の整った10月上旬に攻勢を開始した。先陣を切ったのは三好政長の部隊であり、一方の六角軍は末松信濃守靱嘉が先鋒を務めた。
靱嘉はこの戦いに並々ならぬ思いを秘めていた。
靖十郎が六角家に客将としてやってきてから、伊賀冨樫家の家臣は一定以上の存在感を見せてきた。槻橋伯耆守氏泰、沓澤玄蕃助恒長、安吉源左衛門家長、本折筑前守範嵩、末松信濃守靱嘉の五人が伊賀入部以前から仕えた忠臣として『伊賀冨樫五名臣』と呼ばれ、六角家中でも重きを成している。現在では六角六宿老に匹敵する存在感を示しており、互いが尊重する形で成り立っていた。
しかし他の四人と比べても靱嘉は主だった武功を残しておらず、靱嘉自身も歯痒い思いをしつつも、兵糧奉行を中心に縁の下の力持ちに徹していた。靖十郎は補給の重要性を理解していたので靱嘉の功績を軽んじたことは一度としてないが、それと靱嘉の心情は別物である。周囲が結果を出し、六角家でも重きを成していく中、自分はその残滓にあやかって昇進していくばかりで、実質的には滞留したままである不甲斐なさを胸に宿していた。
その不甲斐なさを一気に晴らすべく、靱嘉は先鋒に立候補する。普段は消極的な靱嘉の変貌に周囲は驚きつつも、六宿老と五名臣の仲を良好に取り持ってきた靱嘉への信頼は高かった。
一番槍を突き刺した末松隊だったが、三好利長の伸長により国を追われた政長はこの戦いで勲功を挙げれば新たな領地を任せると確約を受けていた。そのため士気が非常に高く、当初は六角軍の先鋒である末松隊は劣勢を余儀なくされる。
三好政長方も先鋒が武名に乏しい靱嘉とあって比較的容易に勲功を得られると踏んでか、その勢いは留まることを知らなかった。しかしながら、突如として政長隊の両脇腹を鉄砲隊の斉射が襲う。
先鋒の抵抗が甘かったのはあえて敵の先鋒を自陣に招き込み、脇腹を叩くためだった。まんまと罠に嵌ってしまった政長隊は生い茂る葦原に潜んでいた鉄砲隊の斉射を受けたのだ。
虚を突かれた政長隊は反撃に出た末松隊によって突き崩され、壊滅に追い込まれる。三好政長は撤退の判断をギリギリまで遅らせた結果、乱戦に巻き込まれて討死し、政長の首を獲った靱嘉は念願の戦功を挙げた。
ただ三好政長隊は1千程度の戦力でしかなく、細川六郎も然程揺らぐことはない。むしろ六角の戦略を少ない兵数で露呈せしめたこと、そして三好の同族闘争が呆気なくも幕を閉じ、戦後の心配が一つ減ったことに満足感すら得ていた。
そんな中で、六郎は一抹の違和感を感じる。先鋒を追い返した六角が、攻勢に転じることなく体勢を立て直すだけに留めたことだ。まるで何かの機を窺っているような静けさであった。六角軍の意図を考察していると突然、細川本隊の西側前方に陣を構えていた尼子軍の場所から爆発音が鳴り響く。
「何事だ!」
「わ、分かりませぬ!」
側近も不穏な轟音に動揺を露わにし、視線を彷徨わせる。しばらく経ち、状況の詳細が六郎の下に舞い込んでくると、紅潮していた顔が途端に青褪めた。
大内が裏切ったと流布された尼子が、同士討ちを始めたというのだ。尼子経久であれば、デマと断じて統制することも難しくはなかったはずである。六郎も両者の不仲を考慮して、尼子軍と大内軍を離れた位置に置いている。
しかし、突如響いた爆発音が冷静に状況を判断する理性を粉々に破壊した。『大内が裏切って刃を向けてきた』とか、『山名が火を放った』とか情報が錯綜し、混乱は高潮する。
この時点で、六角の策であることは分かっていた。そして見計らったように六角軍の一陣が西側に展開する。
「我らの弱点を的確に刺してきた。認めるしかあるまい。我らは掌の上で泳がされておるのだ。こうなれば尼子には囮となってもらう外あるまい」
細川本隊は逆に東へと展開し、本隊へ鶴翼の陣で一斉攻撃を仕掛けるのだった。
細川軍が東に展開することも織り込み済みだった。いや、むしろそれを望んでいたと言うべきだろうか。靱嘉が自陣に細川軍の先鋒を引き込み痛手を与えたことで、細川六郎は慎重な戦い方を強いられる。そして先程のような一気呵成に六角軍深くまで食い込み突き崩す戦いは避けると考えた俺は、わざと俺のいる本陣を剥き出しにして弧を描いた陣形を敷き、あたかも罠に嵌めようとしているような光景を突きつけた。疑り深い細川六郎ならば、最大限警戒することだろうと踏んだ。
尼子軍1万5千が機能しなくなったとはいえ、まだ3万を超える細川軍が残っている。対する六角軍は尼子軍の対応に1万の兵を向けており、劣勢は必至だった。
そこで俺は正面から衝突するのを避け、時間稼ぎに徹する。機能不全に陥った尼子軍相手ならば、いくら名将・尼子経久相手とはいえ、容易に撤退に追い込める。同時に本命である三好軍の救援を待つ思惑であった。
細川軍はこちらへの対処に手一杯となり、三好の接近に警戒する余裕をすでに失っていた。
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