川島の戦い②
(六郎様、貴方はやり過ぎた。目的の為ならば手段を選ばず、搦手を使って権力闘争の相手を叩き潰す。それなのに味方同士が争う時は両者の折衝に努め、事を荒立てぬよう受け流す)
ここ数年は自分の思い通りに進まないことが増え、一方に肩入れすることで不利益を被る危険を殊更嫌うようになっている。畿内から追放される一歩手前まで追い込まれたからこそ、名だけでなく実をも失うわけにはいかなかったのが六郎の本音であった。
そんな六郎と和睦して三好利長が仕えたのは、細川に付き従うことで父の仇である六郎に復讐しうる素地を築くためであった。
(父の無念を晴らす、最初はそれが目的だった。しかし今はそれだけではない)
人生の至上命題として掲げていた父の仇討ち。それが利長にとっての原動力の一部になっていたことは疑念の余地もない。だがそれに付随して、利長は新たに芽生えた感情を少しずつ肥大化させていた。それは復讐心というこの世で最も強い感情を圧迫するほどのものになっている。
それは靖十郎に対する恩義である。恩義とは、中嶋城の戦いで命を助けられたことに留まらない。
信仰する法華宗の宗徒が、比叡山延暦寺との戦いで大量に殺戮されたことに煮えたぎる思いを抱えていたが、比叡山の焼き討ちという形で復讐をいとも簡単に成し遂げてしまった。
無論、法華宗にも多大なる非があったこと、六角が利長の意を汲んだわけではないことを理解している。
しかし、比叡山の焼き討ちで心に帯びたのは、妙な喪失感であった。その時利長は、細川六郎を手にかけて復讐心を失った自分が、何を原動力にして動くのかと不安に駆られる。
同時に心の穴を埋めたのが、靖十郎に対する感謝の気持ちだったのだ。
初対面の時、決行できうる力を手に入れるまで誰にも伝えるつもりはなかったにも関わらず、類稀なる洞察力で一瞬にして復讐心を看破されてしまったのには、感心とともに畏怖の念をも覚えた。その畏怖は思春期の利長の心にスパイスを加え、忠誠心にも劣らない強固な感情を宿す。
忠誠心は復讐心を凌駕するほどの推進力を持っている。誰かのために己の命をも投げ出せるような利他主義と、ただひたすら己の目的のために突き進む利己主義は相反したものである。それでも利長はその二つの感情を上手く同居させていた。
史実での利長は江口の戦いでの勝利によって失脚に追い込み、細川政権に終止符を打った。しかし利長には自身が将軍や管領に成り上がろうという野心はなく、父の仇に対しても穏当な処遇に留める。一貫して非情な選択を避ける傾向にあった。父の仇討ちと言いつつ、その後何度も交戦を繰り返したのち、結局手にかけることなく和睦して幽閉したのみに留めていたのだ。江口の戦いでも六郎を死に追いやる好機を得たにも関わらず見逃している。
細川政権を崩壊させた時点で復讐は達せられてしまった。しかし六郎を最後まで手にかけることを厭うたのは、まるで殺してしまえば己の生きる原動力を失ってしまうことに気付いていたような行動であった。事実、利長にとって復讐心とは、自分自身を騙して奮い立たせるための道具でしかなかった。
騙し騙し余勢を繋ぎ止めていた利長だったが、弟の十河一存、三好実休が相次いで急死し、ある意味心の支えでもあった晴元の死が決定打となり利長は鬱を発症する。嫡男・未予想義興の死は更なる追い討ちとなった。その後の三好家がどうなったかは、多くの人が知るところだろう。
だがその歪な復讐心への拘りを吹っ切ったのが、靖十郎に対して芽生えさせた忠誠心だった。
「六郎様、私は貴方を打ち倒す。父の怨念を晴らし、新たな主君の下で未来を切り拓きまする」
利長は『復讐』のその先にある道を見つけたのだ。
細川軍の背後から迫った三好軍は、六角軍と挟み込む形で攻勢に出る。
「おのれ、やはり裏切りおったな!」
自ら先陣を率い背後に突撃を仕掛けた先には、総大将である六郎の姿があった。六郎が発した怒声は、利長の耳にも届く。
「裏切る? 面従腹背は世の常。父の仇である六郎様に従う理由など、その時の自分に力が無かったからよ。それ以外にあり申さぬ」
忍従を貫いたのは、ひとえに短慮を起こしては御家をも失いかねないと判断したからに過ぎない。未来への架け橋を得た利長は、今初めて六郎に対して本心から酷薄さを向けることができた。寛容さの塊のような利長は、弱みを乗り越えて大きな一歩を踏み出したのだ。
挟撃を受けた細川軍はひとたまりもなく、六角軍と三好軍に対してそれぞれ対応する部隊を分けようとするも、既に指揮系統は麻痺していた。六郎が指示を出しても、目の前の敵に精一杯である将兵には届かなかった。
「こんなところで無様にくたばる訳にはいかぬ。撤退する!」
この時には尼子軍はすでに壊滅し、いたずらに抵抗を続けていれば尼子を破った部隊が更に細川軍の脇腹を突く恐れがある。三方から攻められればもはや勝負は決したも同然であった。このまま戦場に留まっていれば命が無いのは明白だった。
その前に強引に桂川を横断し、撤退することが現状の最善手だと考えた茨城長隆の進言もあり、六郎は戦場からの離脱を選択する。
鎧を乱雑に脱ぎ捨てた六郎は、ついて来れるものだけ後を追うよう告げ、もはや背後を気にする素振りなく渡河を始めた。それに気付いた三好軍の一部隊が弓で攻勢を仕掛けるものの、悪運が強い六郎の身体を捉えることはついぞ無かった。
桂川を渡り切った六郎は、右京から北に抜け若狭に向かう決断をする。命辛々戦場を脱した六郎は、若狭への帰還を成し遂げたのだった。
這う這うの体で後瀬山城にたどり着いた六郎は、出迎えた武田宮内少輔信重と対面する。しかし、六郎は強い違和感を覚えていた。
「宮内少輔、大膳大夫は如何した」
「大膳大夫ならばここに」
「何奴!」
六郎の知る元光とは声質が明らかに異なっていた。病に臥す身にしては丈夫過ぎる声音に危険信号を発した六郎は、咄嗟に立ち上がり声の先である襖の奥に目を向ける。
「お初にお目にかかり申す。武田大膳大夫にござる」
「武田大膳大夫……。もしや、甲斐武田の嫡男か!? なぜここにおる!」
「なぜ? 縁戚である若狭武田の窮地に馳せ参じた、ただそれだけにござる」
「ふん、世迷い事を申すな。それだけで甲斐武田の嫡男が来る道理はなかろう」
「六郎様はご存知ないかもしれませぬが、恥ずかしながら某は父上に勘当されましてな。甲斐を追われ、行き場を失っていたところをお声がけいただいた次第にござる」
晴信は柔和な笑みをたたえ、若干の沈黙を経て説明する。
「ふん、父子の仲が劣悪だとは聞いておったがな」
六郎が吐き捨てるように告げると、納得してもらえたと解釈した晴信は容赦なく現実を突きつける。
「六郎様は手痛い、いえ、致命的な敗北を喫したのです。もはや六郎様が幕府の要職に復権することは不可能。六角を裏切ってまで細川に味方した若狭武田が許されることは万一にも無いでしょう」
「誰に向かってそのような舐めた口を聞いておるのだ。まだ負けておらぬ。もう一度態勢を立て直し六角と決戦に出て見せるわ!」
苛立ちに目の血管が膨張しきった六郎は晴信に詰め寄ろうとするが、手前にいた信重に制された。
「何の真似だ。お主、この者に味方すると申すのか?」
「味方も何も、大膳大夫殿は義兄にございまする」
「ふん。有事に乗じて若狭武田の当主に取って代わろうという魂胆であろう」
さすがは六郎というべきか、晴信の意図をすぐに理解していた。
晴信は千の兵で若狭に侵入したのち、東若狭を瞬く間に制圧した。そして破竹の勢いで攻め上がった晴信は、二日前に後瀬山城を包囲したばかりであった。
当初、元光の存在もあり再三の降伏勧告に一切応じない姿勢を見せていたが、六角の諜報によって即座にもたらされた敗報を受け、すぐさま対話姿勢に移行する。
六角を裏切った若狭武田はこのままだと取り潰しになってしまう。それだけは何としても避けねばならない事態だった。晴信は細川軍に参陣した二人に代わって信重が当主を務めるとしても、許しては貰えないだろうと説く。信重も晴信の言葉に耳を傾け、申す通りだと思った。
そこで晴信は靖十郎の義弟であることを信重に伝え、自分が当主となれば御家安堵だけでなく若狭も据え置きとなるだろうというこれ以上ない仕置きに対する期待感、加えて自分の口聞きがあれば二人の兄の命も助かると便宜を図る旨を伝える。また信重が兄二人の家督争いを望まず折衝に努めてきた、物事を穏便に収めようとする性格であること。そして自分が当主になれば兄二人がこれ以上いがみ合う必要も無いことなど感情面からも熱弁を行った。
「此方は将軍を意のままにできるのだ。この身が召された瞬間、幽閉している義晴様を殺す手筈になっておる。六角の思い通りになど決してならぬぞ」
足利義晴が親六角派であることは誰もが知っている事実である。その義晴を殺せば、管領代である六角は幕府の要職という立場を失うこととなる。六郎はそう判断していた。そして自分が死ぬような事態になった場合には義晴を葬り去り、弟の持隆に六角への抵抗を続けるよう指示していた。持隆は三好元長を攻めようとした六郎に反発し、離反した過去がある。しかしながら、細川阿波守護家の当主である持隆は義維の信頼が篤く、嫡男の仙幢丸は阿波でこの持隆によって養育されていた。
そのため、六郎は将軍となった義維の補佐のためならば従うだろうと考える。そして持隆は大内義興の娘を正室に迎えており、今回の戦に主力を投入していない大内の後ろ盾があればまだ戦えると判断したのだ。
自分を殺せば、六角が忠誠を誓う義晴の命はないということ、そして自分を殺しても弟が大内の後ろ盾を以て仙幢丸を奉じ、阿波から再起を図るという六角にとっては都合の良くない未来を突きつけた。
しかし、晴信はそれを一笑に付した。
「ふっ、殺したければ殺せばいい。六角は最初から将軍など意にも介しておりませぬ。もはや幕府は力無き名ばかりの古き権力。むしろ、六角を天下に押し上げるには、幕府の存在は邪魔でしかありませぬ」
「廃嫡されて母国を追われ仕官したばかりの身で何が分かる。この目で見てきた六角弾正少弼は、紛れもなく将軍を支えるべく動いておった。そこに忠誠が無いと? 馬鹿を申すな!」
「その時は幕府の権力が意味を為していたからにございます。弾正少弼様は知りませぬが、嫡男の左近衛権中将様は明確に天下の安寧を志しておりました。そのために幕府の権力を利用するのを厭わなかった。しかし今はもはや幕府がその争いの根源となってしまっておりまする。幕府を切り捨てる時、そのように考えていらっしゃるやもしれませぬな」
「お主のような新参が軽々しく主君の気持ちを代弁するでない!」
六郎は晴信に感じた一片の軽薄さに顔を紅に染める。これは晴信の勝手な妄想、それに違いない。しかしながら、六角がもはや幕府を支えるつもりがない、そんな蓋然性がある程度存在することも心の奥底で認めていた。
「六角はこれから新たな世を切り拓いていくでしょう。古き権力に縋る貴殿のような御人はもはや不要、害悪でしかないのです」
「もう良い。どうせこの身もすぐに潰えるまでよ。ここで意味のない口論をしたところで、運命は変わらぬ。決戦に敗れた時に備えてやるべきことも全てやった。万一、そう考えておったのだがな。後を弟に託し、天から行く末を見守るまでよ」
急激に萎んでいく意思が表情にありありと表れていた。
既に抵抗を諦めていた六郎は、せめてもの気遣いというように切腹するよう言い渡される。後瀬山城は晴信軍に包囲されており、逃げることは不可能であった。
六郎は表情に悔恨を滲ませながらもそれ以上慨嘆することはなく、側近の介錯によって果てる。吹き出した鮮血は、差し込んだ夕暮れの光を浴びることもなく、ただ黒橡の液体が畳に侵食するばかりだった。そこには鉛の匂いと虚しさが充満していた。
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