鶴来の戦い③

「敵襲! 敵襲ゥー!!」


 味方の後方から、悲鳴にも似た喚声と共にそんな報せが響き渡る。黒瀬掃部允基弘がなんの冗談かと視線を向けると、無情にも正しいと信じざるを得ない光景が広がっていた。


(あの旗は朝倉か!?)


 三つ盛木瓜の家紋が旗めくのをただ呆然と見つめる。あまりの衝撃に無音になっていた基弘の周囲であったが、徐々にその姿が鮮明になるにつれ、現実に引き戻されていった。


「くっ、やられたわ!」


 基弘は歯噛みする。背後から迫る軍勢を避けるには、東にしか退路がない。手取川中流の山間部に追い詰めていた気になっていた基弘は、逆に追い詰められつつある現状を自覚する。


 前方の部隊を指揮する洲崎兵庫はその存在にまだ気付けずにいた。細く布陣せざるを得なかったために後方と距離が離れすぎているのだ。三万という大軍を率いることの難しさを基弘は嫌というほど感じた。


「後方から朝倉の軍勢が迫っておると兵庫殿に伝えよ!」

「はっ、承知いたしました!」


 配下の兵が馬を叩いて前方へと駆けていく。大量の汗が滲む自分の状態にすら気づけない基弘は、経験不足を痛感していた。


「掃部允様、如何いたしますか」

「退路を断たれた以上、手取川を渡河するしかあるまい!」


 焦りを露わにする基弘は、自ら槍を掲げながら手取川を渡り始めた。しかし基弘は手取川の急流に重い甲冑を携えた状態で踏み入れており、思うように進まない。一向一揆の軍勢にそのような甲冑を抱えた兵は少なかったため、そこまで気が回らなかった。


「前方に火の手が上がっておりますぞ!」


 配下の誰かが悲痛な様子で叫ぶが、視線を下に向けて足を一歩ずつ踏ん張りながら進めることにしか意識がいっておらず、なんの冗談かと二度目の問答に興じかけたが、足を止めてみた先には土手から勢いよく火の手が上がる様子が目に映った。


 これによって前方も塞がれた恰好になり、一向一揆は四面楚歌の状況に陥る。前方には火の手、東には手取川の上流、北には舟岡山、西からは朝倉軍と、もはや経験の浅い基弘では手に余る状況であった。


「皆の者、落ち着くのだ! 兵数は我らが有利であるぞ! まずは陸に上がり朝倉軍の対処にあたるのだ!」


 さすがは一向一揆というべきか、動揺は戦場にさほど広がっていなかったが、兵の三割がすでに川に浸かっている状況で、再び態勢を立て直すのは至難の技である。


 そしてその動揺に乗じて、舟岡山の軍勢が城から打って出て槍を振るう。水に浸かった事で身体が重くなる者もいる中で朝倉の軍勢も総攻撃を仕掛けており、こうなればもはや一向一揆に勝ち目はなかった。黒瀬掃部允基弘は弓矢の集中放火の餌食となり、大軍の中で静かにその命の灯火を消した。








「我らの勝ちだ! 勝鬨をあげよ!えいッ、えいッ、応ッッ!!」

「えいッ、えいッ、応ッッ!!」


 俺の宣言に将兵は地響きのような勝鬨が上がる。勝鬨には朝倉軍も加わり、しばらくの間続いた。


 手取川の対岸から火の手が上がった瞬間、俺は勝利を確信した。背後から朝倉軍が迫ってくれば、退路は河を渡って上流へと向かうしかない。それを見越し、川岸に油の染み込んだ廃材を置いておき、それに遠くから火矢を放ったのだ。当然ながら大炎上だ。いくら死を恐れない一向一揆とは言え、燃え盛る火の中に猛然と突っ込む事はありえない。炎とは人が根底では確かに恐れているものなのだ。どんな人間でも、一度火に飲み込まれれば生きては還れない。炎を直近で見た者は洗脳が解けたかもしれない。


 一向一揆勢は総崩れとなり、瞬く間に瓦解した。中陣にいた大将格の一人であった黒瀬掃部允基弘は弓矢による集中砲火で命を散らし、先陣で槍を振るっていたもう一人の大将格の洲崎兵庫景勝を討ち取ったのは、沓澤玄蕃助恒長であった。息子の彌四郎は戦いよりも文官寄りの人間であるが、玄蕃助は武骨な見た目に合わせるように槍働きが得意なようであった。名目上の大将である超勝寺実顕を討ち取ったのは朝倉勢の一兵卒だったという。


「靖十郎、やったな!」


 喜びに打ち震えた様子で駆け寄ってくる次郎兄上に対し、まっすぐな笑顔を向けられなかったことで、身体的にではなく精神的な疲弊が想像以上に大きかったことを自覚する。


 俺は主郭より城下の戦況を見つめていたが、最期の瞬間が目に焼き付いて離れない。兵が次々と死んでいく様を見るのは精神的に来るものがあったが、目を背けてはいけないと気丈に心を保ち、最後まで戦場を目に焼きつけた。この形容し難い息苦しさと心の重さは、俺が背負うべき責任の重さである。  


 本来、どんな立場の人間であっても、その命の重さが変わることはない。だがこの戦国乱世においてはそれは詭弁であり、あまりにも簡単に人の命が泡沫の彼方へ消えていく。


 戦いを用いて多大な犠牲を出しながら平穏な世を目指さなければならないのだ。


 一向一揆も元は善良な市民だったのだろう。この戦いで本来は失われないはずの命の灯火が消えてしまったかもしれない。俺はその死を無駄にしてはいけない。全て掴もうとしても、その殆どがこぼれ落ちてしまうのは避けられない。それが世の常というものである。それに気を引き摺られてより多くの不幸を生み出してしまう方が余程愚かだ。


 ならば犠牲を糧にしてでも、自分の両手に収まる範囲で、やれる事を全てやらねばならない。決意を新たにして拳を作った掌は、いつの間にか深緋に染まっていた。

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