櫛田川の戦い

天文七年(一五三八年) 2月 伊勢国大河内城


 大河内城は霧山城を失った北畠が本拠に据えるだけあり、非常に堅牢な山城であった。東に阪内川、北に矢津川が流れ、西と南にも深い谷が巡り、自然の要害と化している。丘陵に築かれたこの城は、北を大手口、南を搦手口とし、本丸や大規模な二の丸、西の丸などを設けており、攻めるには難儀する城だった。


 田丸城の失陥を聞いてから北畠家中は各城の警備態勢を厳重にしており、前線ではないこの城も同様に多くの兵が警戒を深めている。その証左に、夜にも関わらず松明の光が城を灯していた。


 とはいえ上層部の抱える緊張感と警戒心は、末端の一兵卒にまでは伝わっていない。厳重な警戒というのは表向きで、前線でなく堅牢な大河内城が敵に攻められるはずがないという慢心による油断が微かに蔓延っているのも事実であった。北畠軍に浸透するそうした“緩み”を綜讃は突かせた。


 河合衆を率いた田屋勢は、わざわざ雨の日を選び、緊張感が最も緩む朝方に奇襲を敢行する。城の要所に常駐していた見張りの警備兵も大きく人員が減らされ、無防備な状態になっていた。最も警備の緩かった西と南側から総攻撃を仕掛けた田屋勢は瞬く間に要所を制圧し、西の丸を占拠した。


 突然の襲撃に、大河内城の守備兵は大混乱に陥る。碌な準備もせず応戦した守備兵は、雨で地面が泥濘んでいたこともあり、鈍重な動きを強いられていた。それに対してこうした悪条件を得手としていた河合衆は赤子の手を捻るように敵を切り裂いていく。5倍の兵数とあっても、全く不利は生じなかった。


「これ以上の損耗は許容できぬ。要所は明け渡してしまえ。あのようにすばしこく動かれては敵わん」


 守将を任された大河内具良は冷静に事を見据え、兵を本丸の中に引き上げさせた。雨で地面が泥濘んだ中の戦闘は相手の土俵で戦っているだけだと理解したのだ。しかし、既に水を含んで重くなった服では平時の動きには到底及ばず、極寒の冬ということも相まって鈍重であった。


 結果、勢い盛んな田屋勢の攻勢を凌ぎきれず、大河内具良は最後まで抵抗するも討死の憂き目を見る。たった百人での攻城戦の勝利は、家中における素破の地位を大きく押し上げるものとなるのだった。




 


天文七年(一五三八年) 2月 伊勢国田丸城


「もう一度申してみよ」

「はっ、大河内城が落城、左近衛中将様は討死なされ、侍従様も捕らわれ申した」

「……くっ。背後の警戒を怠っておったわ」


 星合親泰は立ち上がり床几が地面に叩きつけられる。その口許は酷薄に歪んでいた。冷静な口調で報告した伝令も、額を地面につけたまま顔を上げられず震える。朝方から打ち付けていた雨も昼を過ぎる頃には止んだが、依然地面は泥濘んだままであった。


「父上、如何なさいまするか」

「無論、大河内城へ引き返す。城を取り戻すのじゃ」


 副将として従軍していた坂内親能が鎮痛な面持ちで尋ねる。田丸城攻めも状況は芳しいとは言い難かった。十日ほど攻勢を仕掛けても、全く攻略への道筋が立たなかった。3千の兵も士気の低迷が著しく、これ以上の攻勢は難しいという決断に至る。


 大河内城が百人で制圧されたとなれば、後詰が来ない限りは容易に落とせると親泰は考えた。しかし、5倍の兵がありながら脆くも敗れた現実に薄気味悪さを覚える。


 焦燥感に駆られながら、夜襲への警戒から親泰は野営を中断し、夕刻にも関わらずすぐに兵を動かした。


「近津長谷城が敵に寝返り、櫛田川に架かる橋を全て破壊したとの由にございまする」


 近津長谷城は櫛田川の中流に位置する山城であり、交通の要衝を見下ろす位置にあるため、ここが敵に降ったのは寝耳に水の報せであった。大河内城という本拠を失い、当主をも敵に拘束されたことで、北畠家の求心力は底を突いたのである。多気郡や飯高郡の諸勢力が軒並み六角方に寝返った。それには北畠滅亡後も御家安堵とある程度の所領を保障する旨と、北畠家は田丸具忠が家督を継いで存続するという先触れが大きく助けた。大河内城に行くには櫛田川の横断が不可欠であり、その道を閉ざされた今北畠軍は絶体絶命となる。


 そして更なる急報は続く。坪内綜讃が1千の兵を率い、田丸城から帰還した舟で安濃津を出立し、自ら船団を先導して櫛田川から近津長谷城へと入ったのだ。朝の大雨で水嵩が増し、流れがやや荒いとは言え、綜讃にとって難しい航海ではなかった。それに合わせ、三井延高率いる田丸城の城兵が城から出て、北畠軍の背後へと迫る。


 北畠軍は挟撃を受ける形となり、進退に窮する。一戦を覚悟した北畠軍は、親泰の指揮の下東西からの攻勢に応じた。


「兵の士気が低い。これほどまでに北畠の、いや、儂の力は足りなんだか」


 この戦いにもし勝ったとして、大きな損耗は避けられない。当主の身柄を奪われ、多気郡や飯高郡の国人が六角に寝返った中で、大河内城の奪還は困難を極める。田丸城を接収した後、再び態勢を立て直すとして、どれほどの国人が味方として残るかは不鮮明だった。いずれにせよ、もう一度六角と一戦を交えることは不可能だろうと。北畠軍全体に、そうした諦念が既に浸透しつつあったのだ。


「だがそれならばよし。最後まで無駄に足掻くだけよ」


(冨樫左近衛権中将。若造と侮っておったこと、訂正しよう。そして錦之介(田丸具忠)。お主の諫言、聞き入れるべきであったな。誠、すまなんだ)


 親泰は静かに闘志を燃やし、自ら先陣に立って槍を振るう。朝方の雨でやや湿った地面を踏み抜き、六角兵を薙ぎ倒していった。それに釣られるように前線の兵が士気を高めるも、綜讃の率いる本隊は木造領を前にして静観を貫いていたため、鬱憤を晴らすかのように勢い盛んであった。


 親泰は悔いる。自らの生涯を掛けた筋金入りの頑固さを死を目前にしてようやく溶かした。


(しかし、この一生は地獄を生き抜く上でも役に立とう。参議様、間もなくお傍へ参りますぞ)


 親泰は己の左足と腹部に熱いものを感じながら、朦朧としつつあった頭で夢想に耽る。北畠軍は六角軍の勢いを抑えきれず、緩やかに瓦解していく。星合親泰の討死は、北畠家の滅亡を意味していた。

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