稍との婚姻

 年末までに加賀統治の引継ぎを行い、年明けの元旦を鶴来城で祝ったのち、すぐに俺は側近の彌四郎や、腹心の重臣である槻橋伯耆守、新参の安吉源左衛門に加え、僅かな家臣と数十人の兵を随伴して再び上洛の途に就いた。


 引き継ぎの際、決して破ってはならない事項を定めた。それは以下の通りになる。


『裕福とあっても要らぬ出費は抑えるべし。冨樫家が得た利益を民に還元することを躊躇わず、民のことを第一に考えよ』


『四公六民を崩さぬこと。戦によってこれを変えることも、冨樫家の信用を損なうことに繋がる』


『産出された鉱物には極力手をつけぬこと。これに手をつける時は苦しい時勢であると心得よ』


『兵農分離を推し進めること。これにより戦の際に軍の編成を迅速にし、練度の高い常備兵を整える。家を継ぐことができぬ農家の次男や三男などを鍛え上げ、春夏秋冬いつでも戦うことのできる屈強な軍を常に持つべし。平時の際は常備兵は治水や道の普請に活用すべし』


『領内にある一向一揆の拠点を全て破却すること。下間一党が帰還する地盤を崩すことで、再蜂起を絶対に防ぐべし。破却した拠点の資材を活用して越中との国境に城を整備すべし』


 これらを守れば加賀統治はある程度円滑に進むと思っている。兄二人の器量に不安視はしていないが、曲がりなりにも俺には一向一揆を討ち果たしたという自負がある。少なからず悪影響が出る可能性を念頭に置き、順蔵には統治の状況を逐一報告させるようにした。


 越前を抜け、六角家の本拠・観音寺城に到着すると、その家臣に丁重に出迎えられる。


 六角家の人間は思ったよりにこやかだ。もう少し殺伐とした感じをイメージしていたから、拍子抜けした。


 婚礼は到着の三日後に執り行われることとなった。定頼の治世だと、家臣団もかなり安定していたのだろう。観音寺城の位置する繖山の山肌には家臣が在居する曲輪が幾重にも立ち並び、その数は数百に上る。そのため、迅速に上から下へと指揮が下りるのだ。


 冨樫家との婚姻は半ば定頼の独断で決まったようだが、冨樫家は領土こそ接していないもののここ一年で急速に力を伸ばしている。加賀守護という家柄からも文句は出ず、家中には抵抗なく浸透したようである。


 前世でも経験しなかった結婚に、日を跨ぐほどますます身が引き締まる。婚礼の儀は三日後だが、その前に新婦との顔合わせがあるため、これが一番緊張する習慣である。


ややと申します」


 目の前の少女は、稍といった。まず目に入ったのが濡羽色の絹糸が如く艶のある髪。それには一切の乱れなく、梳き流されたその形に瞳は食い付けになる。


 決して髪フェチというわけではない。それでも目を惹かれるのは自分でも驚きで、本能が引き起こした気の乱れだと結論づけた。しかし直後、その顔にも見惚れてしまう。輪郭が恐ろしいほど整っており、それだけでも蠱惑的であったが、パチパチと瞬く瞳は穢れを知らず、星が如く澄んでいた。そんなまだ多分に幼さを残す容姿とは反対に、婉容で落ち着き払った様子は、気品さに溢れながらも、どこか儚げで見ているだけで不安になりそうな、そんな空気を感じさせ、多感な幼少期を公家で過ごしたからこその独特な雰囲気を醸している。


 前世では一目惚れという経験は一度もなかったが、その感覚が少し分かったような気がした。だが心の中で頭を振る。あまりにも美しいものを見ると、逆に自分の姿が滑稽に感じて、隠れたくすらなる。沈魚落雁と言うのだろうか。そんな感じだ。


「あの?」

「ああ、すまぬ。お主に見惚れていた」


 恥じらいもなく答えたが、その言葉に稍は頬を赤らめた。奥手で控えめな性格なのだろう。先ほどから目が合ってもすぐに逸らされる。妻となる少女相手に、このようなぎこちない会話のままで良いのだろうか。そんなふとした疑問が脳裏を貫く。永正十五年(1517年)生まれだというから、数え年で十九歳、満年齢は十七歳となる。つまりは高校二年生くらいということだ。その年で他家の人間に嫁ぐとなれば、箱入り娘の稍は不安に押し潰されているかもしれない。ならば年長かつ男の俺が、信頼に足る男であると示さねばならない。

 

「一度外の風に当たりにいかぬか?」


 俺は気づいたらそう提案していた。










「近江は良いところだな」

「……そうですね」


 妙な間があった。俺の言葉に上辺では同意しているが、本心ではそう思っていないらしい。六角家で不当な扱いを受けてきたということはよもやあるまいが、居心地の悪さは常に感じてきたのかもしれない。なにせ武家の子として生まれながら、公家の子として幼少期を過ごし、成長してまた六角家に戻るという、乱世に振り回されてきた人生である。


「六角は居心地が悪いか?」

「いえ、そのようなことは……」


 ここで肯定する訳もない。そんなことをすれば、今の立場すらも失う危険もあるのだ。


「私もまさかこのような展開になるとは予想もしておらなんだ。加賀守護の三男にすぎぬ自分が、弾正少弼様のお眼鏡に叶うとは」

「私も突然婚姻の話を告げられて、今も困惑しています」

「で、あろうな。私もそれは変わらぬ。ただ私は冨樫の家督は継げぬからな」

「それは三男だから、ですか?」

「それも無論あるが、庶子である私はそもそも家督継承権を持たぬのよ」

「靖十郎様は勇壮かつ聡明で、寡兵で一向一揆の大軍を打ち破りながら、それを驕り昂ることなく周囲の者を褒め称える、『加賀の皇甫嵩』と渾名されているとお聞きしました。それほどの才を持ちながら家督を継げぬことを無念とは感じないのですか?」


 稍が神妙な面持ちで尋ねてくる。皇甫嵩と比べられるのは畏れ多い。


 皇甫嵩は三国志でも最高の名将の一人である。太平道と呼ばれる宗教の信徒が引き起こした黄巾の乱において、数十万の信徒をほぼ独力で鎮圧したという伝説がある。信徒が黄色の頭巾を巻いていることから黄巾の乱と呼ばれているが、一向一揆という巨大な宗教勢力と通ずるものがある。


 そうした経緯から、加賀の皇甫嵩などという大層な異名がついたのだろう。皇甫嵩は張角という教祖の主導の下、統率の取れた軍事組織を形成する巨大宗教勢力を相手取った。指導者を失い統率の取れていなかった一向一揆とは、敵としての強さが全く異なる。比較するとあまりにも過分な評価だと思う。


「愚問だな。俺は別に加賀守護の地位に固執しているわけではないし、ましてや自分を優秀などとは欠片も思っていない」


 稍は苦笑いで答える。優秀ではない、という自己評価が冗談に聞こえたのだろうか。稍の周囲では権力闘争に興じ、何が何でもその地位を手に入れようとする泥沼の争いが頻発していたのかもしれない。俺は眼下の淡海を遠い目で見つめる。


「私は淡海がここまで広大とは思っておらなんだ。でも淡海からは向こう岸がはっきり見える。海は見えぬのだ。海の先に何があるか、わかるか?」

「……わかりませぬ。海をこの目で見たことがありませんので」


 稍はいきなり海の話題になって、困惑した様子を見せる。


「海の向こうには外つ国がある。この日ノ本よりも広大で、強い国だ。日ノ本の人間は、それを誰も知らぬ。彼らにとって外つ国は朝鮮や明だけだ。外を極端に知らぬ故に、この狭い国で争い奪い合う」


 稍は何を言いたいのだ、という表情だ。突然脈絡のない話に、困惑の色を示すのも当然だろう。


「私はな、この世を平和にしたい。皆が平等に、平穏に暮らせる世界だ。そして外つ国に負けない国にして、日ノ本の人々に逞しくも、健やかに生きて欲しいのだ」

「……そんなものは綺麗事です」


 微かに頬を膨らませて視線を落とす稍。確かに現状の乱世を見る限りでは、平和な世界など夢のまた夢だろう。


「ああ、綺麗事だ。でも稍はそれを見たいんだろう?」

「どうしてそう思うのですか?」

「瞳がそう言っている。毎日どこかで戦が起こる現実に悲嘆したか? 日々の生活を死に物狂いで働き、糊口を凌ぐ貧しい民を見て、自分に後ろめたさがあったか? 無力な自分に、残酷なこの乱世に辟易したか?」

「……」


 稍の感じる居心地の悪さの根源は、決して周囲の環境ではない。おそらくは自分の置かれた環境が客観的に見て恵まれ過ぎていると感じているからだ。


 三条家に居た時は、家計が火の車だったとはいえ、常に死と隣り合わせの日常を送らざるを得ない暮らしとは無縁のものだっただろう。そんな中で、自分がいかに恵まれているか、そして自分では何もできない無力さを同時に感じたのだ。


「確かに一人では到底解決できぬ。だがな、一人が本気で志し、賛同する者がいれば、俺はできぬとは思わぬ」

「本気なのですか?」

「ああ、本気だ。だが稍の賛同がなければ厳しいかもしれぬな。稍にはこの私を支えてもらわねばならぬ」


 そんな風に、俺はニカっと笑ってみせる。それに釣られたのか、稍は俺の前で初めて笑みを溢した。ようやく空気が柔らかくなったように感じる。


「変わった御方ですね」

「よく言われる。だが変わった人間こそ、この世を変えると思わぬか?」

「ふふ、そうかもしれません」

「稍、俺についてきてくれるか?」

「はい。どこまでもお供します。私は信じます。靖十郎様がこの世を変えてくれるのを」

「照れ臭いな」

「どうしてそこで照れるのですか」


 少し怒ったように眉を寄せる稍に、俺は益々惹かれた。大言壮語したが、不可能とは思っていない。茨の道と分かっていても、乱世はどこを歩いても茨なのだ。どうせ茨なら、険しい茨を選ぶ。守るべき約束もできた。尚更後には引けない。淡海の長閑な水面に誓った。

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