中嶋城の戦い

 天文五年(1536年)三月 伊賀国壬生野城


 伊賀を囲う山々が、春霞の空に溶け込んで、歪んで目に映る。まだかなりの寒さを残す中、和睦に反対する一向一揆の残党が摂津で蜂起した。


「やはり蜂起したか。蓮淳は熱りが冷めたら二人を戻すつもりでいたのだろうから、奴にとって寝耳に水の話だろう」

「下間備中守、筑前守も愚かですな。証如を誑かし敗北に導いただけでなく、二度目の和睦にも反対して兵を挙げるとは」


 槻橋氏泰が物憂げに反応する。主戦派であった下間頼秀と下間頼盛が主導したようだ。破門と追放処分を下された二人だったが、諦めず最後まで抵抗する魂胆のようである。武闘派として本願寺を戦勝に導いてきた功労者なのだから、しばらく大人しくしていれば蓮淳は元の鞘に戻しただろう。だから氏泰の言っている通り、この蜂起は愚の骨頂以外の何物でもない。


 六角は史実と異なり今回の細川・法華宗対一向一揆の構図に参戦してはいなかったので、表向きは中立の姿勢を貫いていたが、武闘派が挙って蜂起した今回の反乱は、壊滅に追い込めれば一向一揆の地力を大きく削ぐことが期待できるため、近江国内の一向衆に悩まされている定頼も動向を注視している。


「意外としぶといな。細川も手を焼いているであろうな」

「反和平派はどうやら中嶋城に籠っているようですな。細川軍も兵を挙げ申した。率いているのは三好伊賀守利長とのこと」

「三好伊賀守利長? 死んだ三好筑前守の子か?」

「左様にございます」


 もしかして三好伊賀守利長とは三好長慶の初名か。そういえば長慶はこの天文の錯乱で和睦に反発した一向一揆を打ち破っていたのだったな。……いや、破ったとはいえ確か一度敗走し、南山城守護代で河内の有力者である木沢長政を頼り、辛くも勝利を得たはずだ。


「戦況はどうなっている?」

「攻めあぐねているようですな。未だ攻勢をかける様子はないと。しかしそれも時間の問題でしょう」


 となれば、まだ十代半ばで若い三好長慶に恩を売るのも悪くはない。長慶は天下を掴みかけたにも関わらず、父親の復讐を果たしたことで燃え尽き症候群となり、天下への意欲を失ってしまった。そして相次ぐ肉親の死に精神を病んでしまい、三好家は凋落の一途を辿ることになるのだ。その優れた才覚を人生半ばで手放してしまったのは、あまりにも勿体無いと常々思っていた。


「和泉の堺に向かう」

「また急ですな」

「この戦、三好伊賀守はおそらく敗れる。ここで恩を売っておきたい。ただ六角家客将の俺が公然と兵を挙げるのも不自然だ。名目は磁器の商談で武野紹鷗と面会するためとする」


 磁器のお得意様である紹鷗には近くを訪れるときにはいつでも立ち寄って欲しいと言われていたので、遠慮なく利用させてもらう。


「沓澤玄蕃助と佐々吉兵衛、柴田権六にすぐに伝えよ。すぐに出立するぞ」


 伊賀でも兵農分離を進め、いつでも軍を編成する準備は整えている。すぐに動かせるのは常備兵の一千程度だが、厳しい訓練で鍛えた精鋭であり、このタイミングでは十分な兵力だ。


「承知致しました」


 こういう突発的に物事を行うとき、氏泰は目の色が変わる。俺のこれまでの功績から、こういう時は大体物事を成功に導くと判断しているのだろう。俺もスイッチを入れ換えて表情を険しく整えた。








 摂津国中嶋城に籠る一向一揆勢は五千に対し、三好利長が率いる軍勢は一万であった。中津川に接する中嶋城は、城というより砦になっている。


 摂津の恵まれた水利を活かし川から物資を運び入れる形をとっており、利長はまずその補給路を遮断する。その上で本隊で中嶋城を包囲し、兵糧攻めで根比べを敢行しようとしていた。一向一揆勢の『恐怖を知らない死兵である』という厄介な特徴は、利長自身も良く理解していたので、生来の慎重さが反映される形の戦術であった。それに一向一揆勢の殆どが細川との和睦を断固拒否した武闘派であり、敵の戦意、戦力を侮ることなく非常に高く見積もっていたのである。


 しかし、利長の思惑とは裏腹に、主君である細川六郎は『一向一揆の残党に何を苦戦しているか。早く片付けて戦果を挙げよ』という現場の事情を無視した自己中心的とも言える命令を下す。


 利長は心の中で悪態をついたが、それを周囲に漏らすことは一切なく、細川六郎の命に従い攻撃を開始した。案の定というべきか、一向一揆勢の気迫は侮れないもので、城に攻め入れない苦しい戦況が続く。その間にも細川軍は徐々に兵を減らし、このままでは埒があかないと一度兵を少し下げようと決断したその時であった。


 死を恐れない一向一揆勢は、一瞬背を向けたその隙を見逃さず、細川軍に猛然と襲いかかってきたのだ。その勢いは凄まじく、元々劣勢となっていた戦況は絶望的なまでに一向一揆優勢な状況へと傾いた。


「仙熊丸様、撤退の下知を!」

「くっ、やむを得ん。撤退だ!」


 利長の傅役であり、細川軍の副将格であった篠原長門守長政が進言すると、利長は苦い顔を浮かべながら声を張り上げた。







「今だ! 切り込め!!」


 突如として沓澤玄蕃助の檄が飛ぶと、その声に従って生い茂った葦原から兵が一瞬にして姿を現し、槍を掲げてやや隊列が細くなった一向一揆勢の脇腹を突いていく。少し遅れて反対側の柴田延勝がそれよりも大きな檄を叫び部隊を先導していった。


 冨樫軍は直前まで戦況を見計らい、葦原の中をうつ伏せになって時を待っていた。今か今かと息を潜めていた将兵は、暴発するように士気が高まっている。細川軍が通過するのを待ち、冨樫軍は追撃を加える一向一揆勢に襲いかかったのだ。


 いるはずがない冨樫軍に不意を突かれた恰好の一向一揆勢は死兵とはいえ怯む。俺は伊賀衆に細川の伝令を装わせ、利長に近しい家臣の一人に利長へと進言するよう仕向けていた。細川軍の退路を冨樫軍が待機している場所へと誘導させたので、島津が得意としていた釣り野伏のような形となった。


 平時なら伝令の言葉など信ずるに値しないと一蹴しただろうが、戦場の混乱とあっては『彼方が近道です』と言われれば誰しも縋りたくなるものだ。ましてやまだ経験の浅い利長は譜代家臣の言葉を無下にするはずもなく、その言葉に従って指定の場所にまでやってきたのだ。


 既に黄昏時となっていた夕焼けの下に鮮血が舞い、それと同時に悲痛な叫び声が妖艶にも思える紫紺の空に響き渡る。


 判断力が鈍る薄暮の時間帯は一向一揆勢の集中力を急激に奪っていく。そして忘れていたはずの恐怖という感情を自覚した彼らは瞬く間に瓦解していった。


「下間備中守、討ち取ったりぃ!」


 闇の帳が落ちるのと時を同じくして、前衛にいた大将である下間頼秀の弟・頼盛が、柴田延勝が本陣を切り崩している隙を突いた佐々嗣成によって討ち取られると、頼秀は兵を退く決断を下す。今回の戦での一向一揆勢にとっての最低目標は『三好伊賀守利長を討ち取ること』であった。それが叶わぬことを悟った頼秀は指揮を途中で放棄するばかりでなく、黒が侵食し始めた紅色を帯びた薄闇に消えていった。

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