長尾家の使者
天文5年(1536年)5月 加賀国鶴来城
5月初旬の麗かな春の陽気の中、突然長尾家当主・長尾為景の重臣である山本寺定景が、単身鶴来城を訪れた。
山本寺家は上杉庶流の家柄であり、為景が名だたる重臣の中でも信用を置く武将だった。かつては敵対していたものの、定景の器量を高く評価した為景が妹を嫁がせ、本拠の不動山城城主に返り咲いた経緯がある。不動山城は西越後の糸魚川に位置する防衛の要であり、堅固な山城であった。
訪問の意図を図りかねた冨樫泰俊は、やや警戒した面持ちで使者を迎え入れる。
「それにしても、この城は立派ですな」
「お褒めに預かり光栄に存ずる。自慢の弟が築いた城でしてな」
「耳には届いておりますぞ。加賀を潤わせ、一向一揆を掃討した類稀なる才器の持ち主であると。先日も三好の戦いに介入して勝利したとも」
定景は眉を吊り上げて不敵に笑う。三好の戦いに介入したという、泰俊がつい十日ほど前に聞いたばかりの出来事を、長尾が知り得ている。その事実に泰俊は得体の知れない恐怖を感じた。
東越中を実効支配する新川郡守護代であり、越後守護代である長尾家、その当主の長尾為景は、三分一原の戦いで辛くも勝利したものの、隠居を決断したという。
「何やら五箇山で怪しげな採掘をしていると。金銀でも採れるのですかな?」
泰俊は眉を歪める。五箇山の件は極秘裏であり、他言無用を言い伝えてあるはずだった。現地の住民から漏れたか、諜報による偵察の結果か、いずれにしても不気味に思った。
「おそらくは長尾が欲するものとはかけ離れたものかと存ずる。どうしても気になるというならば、どうぞ気が済むまで調べるがよろしい。我らは拒みませぬゆえ」
泰俊は持ち前の柔和な笑みを浮かべるが、定景にとってそれは薄気味悪く映る。
五箇山で採れる塩硝は、黒色火薬の原料として密かに製造が行われていた。これまでは細々と行われるに過ぎなかったが、靖十郎が念願の鉄砲を手にしたために、今後は増産が見込まれている。
しかし、鉄砲自体がほぼ流通していない現在の日ノ本において、その用途を知り得る者はいない。泰俊ですら深くは知らないゆえに、強気の姿勢で応えた。その反応を見て、定景は心の中に蟠りを残す。一本取られたな、と小さく息を吐いた。
「それに、長尾家は新川郡以東を任されているに過ぎませぬ。五箇山にまで口出しをするのは、越中守護の畠山ならばともかく、いささか越権行為ではないですかな?」
礪波郡は現状、一向一揆の完全な支配下にある。新川郡又守護代の椎名弾正左衛門尉長常ではなく、糸魚川の不動山城城主・山本寺定景がわざわざ加賀にまで赴いたのは、為景が越中の国人を信用していないからである。下剋上の代表格でもある長尾為景は、永正の乱で上杉房能を討ち傀儡とし、関東管領・上杉顕定の侵攻を跳ね除け敗死に追い込んだ猛将であるが、その経歴ゆえに敵が多い。事実、出陣の回数は百を超え、周囲との敵対を厭わない行動が目立っていた。
「まあ、そんなことは別にどうでもよろしいのです。我らは越後国内で手一杯。其方がどのようなことをしておられようと、手出しなどできない。ここでその許しを乞うようなら、それはそれで好都合ではありましたがな」
定景はそれを理解した上で、泰俊を試したのだ。もし許しを乞うならば、産物の一部を要求するのも容易かった。
だが定景の目論みとは程遠く、逆に言い包められたことに微かな不快感を胸に宿す。
泰俊はこれまで、弟たちへの劣等感による生来の自信の無さに加え、一人で全ての政務を取りまとめ、家を背負うことに対する重圧から、一切の才覚を内外に示せてはいなかった。
しかし、軍事を始めとする様々なことを靖十郎、そしてその後を継いだ泰縄に任せたことにより、泰俊は政に精を出すことで家臣の支持を大幅に回復させることに成功する。そして晴れてこの春、正式に父から家督を委譲された泰俊は、融和的な政策を採り、周辺勢力との関係強化にも乗り出していた。
その筆頭は、やはり朝倉だろう。かねてからの友好関係と、一向一揆との戦いで共闘したことによる同盟関係を、泰俊はより盤石なものとしたかった。
朝倉との関係はもっぱら弟の泰縄に委任し、朝倉とは交易においてより強固な結びつきを得ることで合意した。内容については商売を目的とする両国間での行き来については関所における通行料が免除されるなど、商売を促進する様々な条項を盛り込んだ。その際に泰縄が朝倉孝景にいたく気に入られ、孝景をして子女を儲けていれば嫁がせたかったとまで言わしめるほどだった。
「ならばなぜわざわざ加賀まで赴いたのですかな?」
「長々と話していても仕方がないゆえ、単刀直入に申す。当家と婚姻同盟を結びませぬか。知っての通り、越中では加賀から流入した門徒が既存の門徒との軋轢を生み、内乱寸前の状態になっているとはいえ、膨れ上がった門徒がまとまればたちまち越中の主権が奴等に渡るのは必然。冨樫も五箇山を領する以上、越中の主権が一向一揆の物となるのは好ましくないと思いませぬかな?」
五箇山を話題に挙げた意図を察し、泰俊は僅かに目を細めた。
「つまり、一向一揆の伸長を抑えるため東西で挟み討つ同盟を組みたい、と。そういうことですな?」
これは表面上は『持ちかけている』わけだが、実質は脅しに近い形である。長尾も知っているのだ。金や銀でなくとも、五箇山で採れる鉱産物が冨樫にとって限りなく有益であることを。そうでもなければ、隣国の領土を守護である畠山の許可なく領するわけがないのだ。
五箇山と繋がっているのを知っている以上、断ればその情報を一向一揆の門徒に横流す、ということを暗に示していることでもある。
一向一揆を刺激しない方針で固めていた泰俊は、当然揺れ動く。それでも、加賀を簒奪された過去の痛みを最も知る冨樫家の人間にとって、静観というのが最善択では決してないことも理解していた。
脅し同然の同盟を持ちかけてきた長尾が信用に足るかどうかはこの際無視しても、越後の主権を確固たるものとして保持してきた長尾為景の近年における力の低下を考慮すれば、簡単に承諾するわけにもいかなかった。
長考の後、泰俊は口を開く。
「ではこう致しましょう。無論、我らも一向一揆を危険視しております。しかし今現在、刺激しない方が良いのもまた事実。ひとまず同盟は相互不可侵・相互防衛のみとする内容にしていただきたい。その上でもしそちらが婚姻同盟を望むのであれば、長尾の姫が某に嫁ぐ形で頼み申す」
泰俊は主導権を握らせたまま議論を終結させないため、強気な姿勢を示す。
長尾が婚姻同盟をわざわざ持ちかけたのは、下剋上で成り上がったために信用がないこと、そして一向一揆を国から掃討した冨樫を、多少なりとも脅威に感じていること、の二つが起因していると泰俊は推察した。
このまま越中での影響力低下を放置していれば、やがて冨樫が影響力を広めていく可能性があると、長尾は危惧していたのだ。
そして長尾の姫が嫁いでくれば、人質としての価値も生まれる。為景が人質を気にするような男であるかどうかはとりあえず置いておき、少しでも優位な同盟を結ぶために泰俊は腐心していた。
「……想像よりもずっと強かな御仁のようですな。承知致し申した。それで構いませぬ。信濃守様のご息女である綾姫様を貴家に嫁がせましょう」
綾姫とは史実で仙桃院の名で知られる上杉景勝の母である。この婚姻により、景勝が生まれる未来が絶たれたことになる。
無論、定景とて泰俊を軽んじていたわけではない。それでも冨樫家を復権に導いた本人がいない状況ならば、付け入る隙はいくらでもあると思っていた。その隙が殆ど見られないのは、さすがの定景も想定外だった。
しかし、相互防衛を規定した長尾との同盟は、目下に一向一揆が座する冨樫家の安全保障上においても、大きな意味を持つことになるのであった。
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