泰俊との誓い

 目の前に見える館は、遠目から見ても加賀守護の本拠地と呼ぶにはあまりにも相応しくない有様だった。昨年冨樫家がこの地を追われてから、本願寺は館の堀を埋め立てた。本来ならば詰めの城である高尾城は随分前に失陥している。それゆえに、籠城する際に舞台となるのはこの冨樫館以外に無かった。


 予想通りと言うべきか、屋敷の中は廃屋と表現しても差し支えない程荒れ果てている。一向一揆勢が中にあった家財やら一切合切持ち出したのだろう。家の中に価値のあるものなど全く残っていなかった。


 冨樫家歴代当主————由緒正しき加賀守護が座る部屋も同様だった。歴代当主が描いてきた馬の絵の掛け軸は総じて姿を消し殺風景である。室町幕府の成立に大きく貢献し、八介の一家として室町幕府をその手で支えてきた加賀守護・冨樫家の威光の失墜を痛々しくも感じさせ、嫌というほど見せつけられるような光景であった。


「靖十郎様。先程から難しい顔をされておりますが、体調でも優れませぬか?」


 襖越しに掛かる声は、心底憂わしげな色を帯びている。


「いや、すまぬ。そうではないのだ。少し考え事をしていた」

「靖十郎様は最近になってお変わりになられましたな。まるでお人が変わった気すら致します。以前の靖十郎様より瞳が力強いと申しますか」


 目の前の爽やかな男の名は、沓澤彌四郎兼長という。俺の側近であり、常に俺の様子を窺っているので僅かな機微にもよく気付く。まあ今回は誰しもが変化を感じ取るほどの変わりようだから、あえて告げなかったのだろう。俺は苦笑いで流す。


「それより、兄上はどうされている?」

「次郎様なら先祖の墓参りに行くと仰られておりました」

「兄上も水臭い。私にもお声を掛けてくれてもいいものを。彌四郎、案内してくれ」

「承知致しました」


 彌四郎は頷いて、俺を促した。








「兄上、こちらでしたか」

「靖十郎か。どうしてここに?」


 俺の顔を見た瞬間、次郎兄上の表情に翳りが帯びた。どこか後ろめたさのようなものを感じる。


「もちろん、ご先祖様に加賀に帰還したことをご報告するためです。こうして加賀に帰ってきたのです。顔をお見せしなければ無礼かと」

「そうか」

「何か悩みでも?」

「いや、これから一体どうしたものかと思うてな。家臣は誰もが私に期待などしておらぬ。この状況を打破できるなどとは誰もな」

「そのようなことは……」

「無い、と言い切れるのか? 少なくとも私は自分の能力を正確に見定めているつもりだ」


 次郎兄上は自嘲する。俺は否定の言葉を紡ぐことが出来なかった。


「お主は変わったな。目を見張るほどにな。父上や多くの家臣が驚き、賞賛しておった」

「大したことはしておりませぬ」

「そうは思わぬ。それだけでない。お主はよく家臣を労い、心を配っていた。それは誰にでも出来ることではない」

「それは兄上を真似たに過ぎませぬ」


 当初はどのように振る舞っていいか分からず、近くにいた兄を参考にした。家臣を篤く労う。それは泰俊なりの処世術のようなものだったのだろう。そして専売特許のようなものでもあった。無論、父や小次郎兄上がやっていないというわけではない。しかし心から寄り添う、という点においては誰よりも長けていた。


「私には何も出来ることが無い。館に着いてから、そんな現実を矢庭に突きつけられた気がしたのだ」


 次郎兄上は拳を強く握り、歯噛みする。何が胸臆を刺激したのか、館を見て何を感じたのか。


「館の荒れ様を見たであろう。そこには本来、先祖代々受け継がれてきた馬の絵があった。私にはそれを描く才能すら無い。代わりに優秀な小次郎が先祖の誰よりも上手く馬を描く」


 小次郎兄上は確かに馬の絵を描く才能に卓越している。それは歴代のどの当主と比べても傑出したものだった。その才能が次郎兄上には無い。そこに長く劣等感を感じている。館にあったはずの馬の絵が無いことは、次郎兄上に喪失感を強く突きつけた。自分の描いた絵でその喪失感を補填することも出来ない無力さを感じたのだろうか。威光を失った冨樫家の惨状を前にしても、自らの力で立て直すことが出来ない現実と同様に。


「小次郎は優秀だ。どの部分においても、私より一段上を行く。それは仕方ないと諦めていた。だがな、靖十郎。お主は私と同じだと思っていたのだ」

「同じとは、何も突出した能力を持たず、馬の絵すら描けぬと?」

「情けないだろう? 末弟に酷い同胞意識を抱いていたのだ。こんな兄を軽蔑してくれても構わぬ」


 俺は胸を締め付けられるような思いに駆られる。『平凡で何もない弟』であったはずの靖十郎が才能に目覚め、急に頭角を表した。焦燥感や劣等感、嫉妬心、色々なものが生まれたのだろう。


 史実を知る俺は、次郎兄上がこの状況を打破できないことを知っている。だからこそ俺が力を尽くすべきだと思っていた。だがそれは、次郎兄上のことを全く考えていない行為だ。俺がもしその力を駆使して一向一揆の勢力を叩き、国を豊かに発展させたとすれば、次郎兄上の面目は潰れ、嫡男としての立場は無い。ましてや相手が六つも下の弟ならば屈辱も感じるだろう。


 いつから俺はそのように視野が狭い人間になったのだろうか。自分のことしか考えられない人間に。戦国時代という過酷な環境に適応するため余裕のない心理状況にあったから? 自分の力があれば全て良い方向に導けると確信して自信過剰になっていたから? そんなものは言い訳に過ぎない。


「軽蔑などするはずがございませぬ」

「で、あろうな。お主は優しい。このような兄でも慕ってくれる」

「優しくなどございませぬ。ただ必死だった。私はこうして加賀に戻った時、兄上を支えられるようになりたい。その一心で精進致しました」


 嘘ではない。俺に家督の継承権はないのだ。自らの力を振るうことは、兄を支えることになる。ただ、そこに思いやりが介在していなかったことを除けば。


「まるでこうなることが分かっていたような口ぶりだな」

「……実は分かっていたのです。本願寺が敗れ、下間一党が加賀を去ることも。そして、三年のうちに戻ってくることも」

「なんだと?」

「三ヶ月前、私は神託を授かり申した。私がこれからどうすべきかも」

「お主の変わりようを見ると、あながち嘘だとは思えぬな。しかし、そうか。靖十郎は天に選ばれし者だったという訳か。それならば合点が行く」


 次郎兄上は納得したように三度頷く。


「兄上は持たざる者の気持ちが分かります。それは無二の才能かと存じまする。加賀は持たざる者の国です。貧しい百姓が宗教に盲信し、いいように操られてしまっている。加賀の民に寄り添えるのは次郎兄上しかおりませぬ」

「持たざる者の気持ち、か」


 俺がどんなに寄り添おうとしても、所詮は豊かな現代日本から送られた魂である。貧しい民の心情など、本質的には理解できない。しかし次郎兄上は違う。この時代に生まれ育っている。心から理解し寄り添える存在なのだ。


「兄上、某がお支え致しまする。銭を稼ぎ、兵を統制致しましょう。兄上は政に全力を注ぎ、多くの民を慰撫してくだされ。そして我らの手であるべき加賀に戻すのです」


 次郎兄上は射抜くようにジッと俺の目を見つめる。目を逸らすことなく沈黙が続くと、次郎兄上は徐にフッと笑い声を溢した。


「澱みのない真っ直ぐな瞳だ。お主の勇姿が脳裏に浮かぶわ。つい先ほどまで絶望に暮れていたのが嘘のようだ。心が晴れ晴れしている。一向一揆を駆逐し、加賀に平穏をもたらす。その責務を担っているのだ。ここで弱音を吐くなど、情けない姿を見せてしまったな」

「はて、弱音など吐かれましたかな」

「はは、白々しい。だが感謝を申すぞ。歩むべき道が定まった」


 次郎兄上は自信に満ち溢れた表情で墓石に手を合わせた。俺も先祖に向かって心中で決意表明をする。御家滅亡という未来を回避し、かつての威光を取り戻すため全力を尽くします、と。

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