一向一揆の蜂起

 天文三年(1534年)に移り変わった。冬は昨年以上に死者が少なく、領内では殆どが支障なく冬を越すことができた。昨年の十一月には鶴来城の七割強が完成し、冬の到来を迎える。そして今年の五月の初旬には完成を見た。


 鶴来城の普請では短期の完成を目指した為、作業員として多くの傭兵を雇っている。建築を担う番匠の指導の下、他領で戦士として活躍した者を土着させ、戦力として計算できるようになればと踏んでいたが、期待した通り多くの傭兵が領内に残った。北加賀の裕福な暮らしを垣間見たことが大きかったのだろう。


 去年の秋頃から財政にも余裕ができたこともあり、朝廷に菊酒や石鹸の献上や幾分かの献金を行うようになっていた。しかしながら菊酒を含め清酒は高級品である。戦火によって貧しい生活を強いられている朝廷にとっては嬉しい献上品で、帝もたいそう喜ばれたとのことであった。そして菊酒の味わいは特にお気に召されたとのことが勅書に記されており、それを伝えたところ権蔵は涙を流していた。帝もその味を称賛したとあれば、これから更に畿内では売れていくだろう。


 朝廷と同様に、六月には足利幕府にも酒と石鹸を献上した。冨樫家は足利尊氏に一貫して味方をしていたことで加賀守護に任じられ、長年国を運営していた。この加賀守護という立場を与えられているのは、室町幕府の存在があるからこそであり、これは加賀支配の大義名分だ。決して蔑ろにできる存在ではない。


 将軍であった足利義維と細川晴元の対立によって堺公方が滅亡したことで、足利義晴が新たな傀儡として祭り上げられたわけだが、六角家の仲介による細川六郎(晴元)との和平が成立し、七年ぶりに京へと帰還する目処が立ったということで、これを祝う意味もあった。京への帰還を祝福して高価な品を献上するので加賀支配の大義名分を補償してくださいね、という暗喩でもある。


 これを分かっているか分かってないかは知らないが、足利義晴からは朝廷の時と同じように感謝の言葉があった。ただ義晴は体調が思わしくなく、酒を飲むのは控えたらしい。その分幕臣に下賜して喜ばれたとのことである。史実では義晴が亡くなるのはまだ先なので現時点で心配はあまりしていない。


 畿内の情勢に口を突っ込める現状ではないが、室町幕府が滅亡すると困るのでせめて史実通りくらいは保ってほしい。


 そんな順調な領内経営を続けていたが、六月に入りすぐ一大事は起こる。


「南部の加賀一向一揆が蜂起致しました。奴らはここ、鶴来城に向かっております」

「ついにこの時が来たか」


 次郎兄上が神妙な面持ちで拳を握る。俺は火急の報せがあると伝えられた時点で察してはいたが、静かに嘆息するばかりであった。集められた諸将はその一言に一抹の動揺を露わにするが、表情に占めている感情はもっぱら呆れであるように感じられる。


「下間備中守(頼盛)と筑前守(頼秀)はまだ帰還しておらぬのではないか?」


 槻橋伯耆守が植田順蔵に向かって問いかける。当然の疑問だった。我らの耳にそのような情報はまだ入っていない。下間頼盛と頼秀は兄弟であり、大小一揆を引き起こした張本人である。双方共に非常に好戦的な性格で、物事に火種を注ぎ込むのが余程好きなようだ。


「左様にございまする。南加賀の一向一揆は、指導者がいないまま蜂起したものと思われます」

「それが真ならば滑稽にございまするな」


 側近である彌四郎の父・沓澤玄蕃助恒長が嘲笑うように目を細める。冨樫の戦力は未だ恐るるに足らないというのが大方の見方だろう。主だった指揮官を欠いていても、十分に掃討できる戦力だと踏んだのだ。


 鶴来を狙うのはおそらく、鶴来が経済的、戦略的に大きな意味を持ちつつあるからだ。鶴来の存在が将来の懸念になると見たのだろう。しかし一方で、指導者が大坂にいるせいで統制が取れず困窮に喘ぐ一向一揆が、殷賑を極める我らを妬んだからにも見える。いくら北加賀と南加賀で経済格差が広がり、目に見えるレベルで生活に差があるとしても、それを自ら選択しているのは彼らである。冨樫家としては一向宗を捨てれば北加賀に移り住むことも許容されているのだ。ただ未だこれを受け入れず盲信的なままに一向宗に身を浸している者が多数存在するのは、一向一揆の影響力が如何に高いのかを示す証左だろう。そして冨樫家に対する信用度の低さでもあると言える。


 鶴来城の普請を早めに進めさせたのは僥倖だった。これが滞っていれば未完成の城郭で出迎える羽目になっていたはずだからな。


「そもそも、一揆という集団とはいえ、何の権限も持たぬ一介の百姓たちが兵を挙げるとは思えぬ。誰の差し金だ?」


 肝心なのはそれだ。盲信的な信者が固まっているとしても、いきなり自分たちで統制をまとめて北に攻めるというのは考えにくい。となれば下間一党による命令であることは容易に想像できる。つまりこれは、加賀で復権を期す冨樫家への制裁を意味する。


「それについて順にお話いたします。まず三月に大坂本願寺の証如が突如拘束されました」

「なんと、それは何故だ?」


 次郎兄上は額に皺を寄せ、冷静を装いつつ問いただす。


「抗戦派であった下間備中守、筑前守が和睦を不満に思い、蜂起に傾いたのです。証如は身を解かれるものの、下間備中守の教唆で和睦を破棄したというのが、一連の顛末にございまする」


 加賀一向一揆を指揮していた指揮官である頼盛と頼秀はそのまま大坂で一揆を指揮する指揮官として動いていたが、たびたび法主である証如の意思を超えた行動を行っており、ついには実質的に証如に逆らう形で暴挙に出たのだ。


 詳細こそ知らなかったが、本願寺は史実でも和睦を破棄している。呆れはしたが、驚きはなかった。


「ふむ。つまるところ、本願寺が和睦を破棄したことで、畿内の戦闘が再び始まった。それに呼応させる形で、加賀一向一揆にも蜂起の命令を出したのだな」

「おそらく左様かと存じます。長島願証寺も証如の命を受け兵を起こしたとの由にございまする」


 幸いなのは懸念すべき越中の一向一揆が動いていないということだ。越中も本願寺の勢力が非常に強い土地だが、指導する勝興寺と瑞泉寺は大小一揆において大一揆側に属した為、主導権が本願寺に移行されることはなく、勝興寺と瑞泉寺がその舵を握っている。故に南加賀の一向一揆に同調しようとはしなかった。大小一揆の勃発からも分かるように、本願寺は一枚岩では決してない。


「しかし兵数は三万にも及ぶと見られます。兵数だけを見ると、到底太刀打ちができるものではございませぬ」

「指揮官無き一向一揆は烏合の衆と聞く。油断せねば必ず勝機は見いだせよう」


 畿内の対立では、軍勢が一時十万にも上ったというが、これによって多くの実力者が国を追われたり自刃に追い込まれたりしている。北加賀は勢威をある程度取り戻したとはいえ、依然十五万石と傭兵を含めても四千程度なので、数の差では絶望的だ。しかし指揮官が不在なのであれば勝利を見出すことは可能であろう。入念に準備を進めねばならぬな。

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