天文法華の乱
天文5年(1536年)7月 伊賀国壬生野城
思ったように援軍が得られなかった延暦寺だったが、味方となった細川の軍勢を併せて四万の軍勢を率いて洛中へと侵入した。増長する法華宗に対して傘下に入り上納金を納めるよう迫ったわけだが、当然要求は跳ね除けられ決裂した。延暦寺はおそらく攻める大義名分が欲しかったのだ。この強引な要求が大義となりうるかは別として、断られる前提のまさに宣戦布告と同義のものと言えるだろう。
対する法華宗は総勢二万の軍勢で対抗した。対決を確信していた法華宗は至る所に堀を設けて迎え打ち、法華宗は優位に展開を進めていった。しかしその均衡も長くは持たず、やがて両者は身を削りあう壮絶な戦闘を繰り広げる。
冷夏だった去年とは一変し、今年の暑さは容赦なく死体の腐敗を加速させ、洛中は地獄絵図と化した。衛生状態は最悪となり、腐敗臭は風に乗り隣国にまで及ぶようになっていた。史実よりも兵力差が小さいことから均衡した戦況に不満を募らせた延暦寺の門徒は、町中で無差別に放火を行い一般市民をも襲う。法華宗が設けた背の低い望楼も無惨に崩れ落ちていき、ついには日蓮宗二十一本山が次々と焼き払われていった。しかし法華宗も食いついて互いに互いの寺院を焼き合う泥沼の戦況と化すと、その火は民家に延焼し、洛中は史上最悪とも言える大規模な火災に見舞われることとなる。
「……心配か?」
「はい……」
稍は返事も弱々しく、どこかうわの空だ。それも当然のことだろうな。養父の住む屋敷に延焼した可能性は否定できず、安否が定かではない。このまま座して報告を待っていても、稍の消え入りそうな様子に心が削られるだけだ。
「致し方ない。私は亜相様の様子を見にこれから京に赴く。帝のことも心配だ」
「で、ですが京は未だ戦乱が終結を見ていないと」
「確かに危険だろうが、稍の悲しむ顔は見たくない。万全を期して一千の兵を率いて洛西を迂回していくつもりだから、心配には及ばないさ」
「無事に帰ってきてくださいね」
「勿論だ」
俺は顔が強張ったままの稍の頬を優しく撫でる。そして包み込むように抱きしめ、落ち着かせようと背中を撫で続けるのだった。
天文5年(1536年)7月 京
京に乗り込んだ俺はその惨状を目にして愕然とした。
「話は聞いていたが、これほどまでとは」
「この腐敗臭は流石に堪えますな。元々腐り切っていた坊主です。腐敗したらこの世のものとは思えないものになるのも頷けますな」
戦場の血の匂いとは異質な、人間が最も嗅ぎ慣れない匂いだ。法華宗の寺院は上京に多く、標的となった寺は次々と燃やされ、御所の北側は酷い有様になっているという。本山である左京の要法寺は真っ先に燃やされており、近在の頂妙寺や妙伝寺も焼けたために左京の被害も甚大だったが、鴨川を挟んでいるため御所に延焼が及ぶことはなかった。
丸焦げになった黒い物体は建物のものか、人間のものか区別が付かず、俺は歯噛みした。
三条公頼の屋敷は三条高倉にあり、火災によって焼け跡と化していた。中京の被害は上京や左京と比べれば小規模だったものの、同じく標的となっていた本能寺に近く、周辺には民家も多かったために運悪く延焼してしまい、屋敷が焼失する憂き目を見たのだという。一瞬肝を冷やしたが、公頼自身は御所に避難したということで胸を撫で下ろしたものである。
「亜相様、ご無事でございましたか!」
「おお、伊賀守殿! よもや来て頂けるとは思わなんだ」
御所にたどり着くと、公頼は怪我一つなく、無事な様子であった。どうやら法華宗と延暦寺の戦闘が始まってから危険を見越して予め避難していたらしい。
「亜相様と帝の御身に何かあってはかないませぬ故、駆けつけるのは当然にございまする」
「延暦寺の放った火は上京にも及んだ。公方の仮の御所も燃えたそうだ」
なんとか御所にまで火の手が及ぶことは回避され、清廉潔白で知られる後奈良天皇は安全な御所の敷地に一般庶民を迎え入れたという。それだけでなく朝廷の財政を顧みず食料を提供し、困窮する庶民に寄り添った。公家の反対がありながらも押し切った後奈良天皇の慈悲深さは尊敬されて然るべきものだ。その一方で、俺は幕府の御供衆に任じられているわけだが、公方の仮の御所も燃えたと聞いても正直なところ義晴の安否など気にもならず、我ながら薄情だと思う。
「ご無事で何よりにございまする」
「朕は斯様な状況にありながら何もできぬ。日ノ本の帝という立場でありながら何とも無力なものよの」
昇殿した俺は後奈良天皇に謁見した。しかし目には隈が目立つ。権威はあっても力がないため、京が燃えているというのに指を咥えてみていることしかできない。
「民は感謝しております。民を御所に迎え入れるだけでなく食料を分け与えたとか」
「焼け石に水に過ぎぬ。褒められる謂れは無い」
自分を責めている光景は目に毒だ。後ろに控えている公頼も気まずい様子で視線を背けている。
「延暦寺は一度蜂起した以上後に引けぬのでしょう。両者とも決着が付くまで戦いはやめませぬ」
「比叡山は鎮護国家の道場であり、本来ならば国家の安泰を祈願し民を安んじるため力を尽くすべきなのだ。その責務を果たすどころか、国の都である京を焼き払い、世の平穏を進んで乱した。許すわけにはいかぬ」
温厚な帝が珍しく感情を露わにして拳を握っている。延暦寺は京の町を焼いたにも関わらず、自分たちは坂本の町で酒と女に溺れて特権による平穏を享受しているとなれば腹も立つ。
それにこのまま戦が長期化すれば、細川が後ろ盾になっている延暦寺が勝つ可能性が高くなる。兵数でもやや延暦寺が有利だ。俺は続く言葉を待つ。
「尊皇の忠臣であるそなたに頼みがある。比叡山延暦寺に鉄槌を下すべく、伊賀守、ひいては六角弾正少弼の力を借りたい」
「それは即ち延暦寺を朝敵とし、討伐せよという宣旨、にございますか?」
「その通りだ」
「延暦寺の座主は覚胤法親王様が務めておられますが、よろしいのですか?」
「皇族であろうと構わぬ。いや、皇族であるからこそ、比叡山の蛮行は許すわけにはゆかぬ」
「承知致しました。都の民を苦しめ、帝の安寧の祈りを妨げる比叡山延暦寺を必ずや討伐致しまする」
後奈良天皇が勅勘を発され、比叡山が朝敵認定されることになった。六角にとっても渡に船だろう。仏敵認定されるのを避けるべく、坂本に手を出すことは忌避されてきた。それを帝直々の命令により錦の御旗を掲げて正義の名の下において堂々と討伐できるようになったのだ。
「しかし火災は一旦消火されたとのことにございますが、依然両者の戦いは続いておりまする。また火の手が上がり、御所にまで火が及べば御身までも危険に晒されることになりましょう。ここは一度近江に避難されるのが肝要かと臣は考えまする」
「いや、朕は御所に残る。苦しむ民を残して自分だけ落ち延びるなど、帝としての立場から許されぬ」
「配慮が足りず、申し訳ございませぬ」
後奈良天皇の性格を思えば、残存している御所から逃げるなどもっての外であると気づくべきだった。少し失言だったかな。
「いや、そなたの忠言は尤もだ。朕を心配しての言葉であることは存じておる。権中納言のように住む家を失くした者もおるゆえ、もし可能ならばしばらく伊賀に避難させてはもらえぬか?」
「その程度のこと、造作もございませぬ」
ただ御所内に邸宅を構える者や、運良く屋敷が燃えていない者も多く、帝が残ると聞いて残ることを決断した者も多かったが、やはり公家も一枚岩ではない。帝が京に残ると決断した以上、もし伊賀に退避すれば朝廷内での権力バランスに歪みが生じる可能性もあり、それを恐れてか摂関家を始めとする公卿は京を離れるのを渋った。
結局、伊賀に避難したのは、同じ藤原氏北家閑院流の内大臣・西園寺実宣や権大納言・徳大寺実通、分家の左近衛中将・正親町三条公兄や権大納言・三条西公条といった三条家と昵懇の間柄にある者や、それより下級の困窮に喘ぐ公家が多かった。
しかし公頼を連れて行けば稍も安心するだろうし、朝廷との関係性を深める上でも公家を受け入れるのも悪くない。
俺は率いてきた兵のうち二百を、御所の警備という名目で置いたのち、三条公頼を始めとする避難を望んだ公家を連れて帰国の途に就いた。
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