伊賀平定

「百田、福喜多、富岡も冨樫に臣従すると申しております」

「そうか。これで中伊賀は完全に手に入った。あとは北伊賀か」

「植田、音羽、家喜は徹底抗戦を主張しており、その他は概ね恭順の姿勢のようにございます」


 服部家と藤林家が冨樫に臣従すると表明したことにより、名張郡を除く伊賀の土豪たちは臣従か徹底抗戦かの二択を迫られた。中でも注視していたのは、伊賀十二人衆と呼ばれる合議によって伊賀の統治方針を決める評定衆の動向だ。だがその大半が他の豪族の動きを見てから決めるといった日和見の姿勢だったので、半蔵と長門守に『帝に直接統治を任された』という情報を流布した結果、冨樫家に臣従する決断を下す者が続出した。ただ、それをするまでもなく真っ先に臣従を申し出たのは田屋家の田屋趙犀庵ちょうさいあん磐琇ばんしゅうただ一人であった。


 この田屋磐琇は出家して長男の掃部介景貞に家督を譲ったばかりだが、実権は磐琇が握っているらしい。かなり冨樫家の伊賀進駐に好意的であった。対外姿勢が排他的な傾向の強い北伊賀衆の中でも田屋家は融和的で、他の三家と折り合いが悪かったらしい。元々藤林長門守も諸大名家とは距離を取っていたし、北伊賀はそういう空気が強いのだろう。田矢城が北伊賀攻略における最前線となることもあり、今後も伊賀統治に貢献してくれるだろうと踏んで重臣の一人に組み入れることにした。実際に会ってみると磐琇自身も温厚で聡く、好感の持てる人物だった。


 伊賀十二人衆のうち、名張郡の滝野、布生を除き、中伊賀の町井、小泉、中林に加えて百田、福喜多、富岡が臣従を表明したことで、残る主な抵抗勢力は北伊賀の三家のみとなった。


 北伊賀の土豪である植田、音羽、家喜は藤林長門守の説得も空しく、自治組織の解体を頑なに拒んだそうである。この三家は史実の織田家の伸長に対しても、徹底抗戦を貫いている。これ以上説得を続けても時間の無駄だろう。こうなれば合戦に挑む他ない。


 中伊賀の有力者が殆ど味方についたことで、南北からの挟撃ができるのは有利に働いた。俺が率いる本隊の兵数の五百に加え、藤林、田屋は七百、服部ら中伊賀勢が一千の合計二千二百。対して敵対する北伊賀勢は一千となっていた。


 伊賀には籠城できるような城郭が少なく、上忍である服部や藤林ですら粗末な居館を維持するので精一杯だったため、必然的に野戦となった。無論北伊賀勢も無策ではなく、得意のゲリラ戦を展開したが、それより格上の存在である上忍の二家が味方していることで、夜襲などの作戦は事前に察知され筒抜けとなり、ことごとく失敗に終わっていた。流石は上忍というべきか、二人が味方してくれて心底安堵したものである。


 逆に一転して攻めに転じ、同様にゲリラ作戦を展開すると、徐々に北伊賀勢は兵を減らしていった。そして雨中の晩に仕掛けた夜襲作戦が敵の疑心暗鬼を誘発し、ついには仲間割れの様相となり北伊賀勢は壊滅した。


「植田筑前守、音羽半兵衛は討死、家喜下総守は逃亡を図ったようにございます」


 狭い田矢城の一室に、おおっという声が響き渡った。譜代の重臣である槻橋伯耆守氏泰、沓澤玄蕃助恒長に加え、本折筑前守範嵩、安吉源左衛門家長、伊賀衆の服部半蔵保長、藤林長門守保豊、田屋趙犀庵磐琇という面子が居並んでいる。


「北伊賀はこれで平定と相成ったわけだ。皆の働きは天晴れだ。この戦果も皆のお陰である。この冨樫伊賀守、感服致した」


 俺の会釈に、全員が深く頭を垂れた。


「これも靖十郎様の御威光あってこそにございます」


 氏泰が感激したように目を潤ませている。加賀を平定した時もそうだが、涙腺が緩くなったな。俺が生まれた時から傅役として側にいたから、実の子以上の存在なのだろう。俺にとっても父に近しい存在だ。氏泰なくしてはここまで辿り着けなかっただろう。


「しかし、まだ平定しただけだ。ここからは帝に託されたように伊賀を豊かにせねばならぬ。まずは冨樫家が秘法としている石鹸、清酒、炭団といった特産品の製造を教え、銭を稼ぐ方法を伝授する。それだけでは足りぬな。伊賀独自の物も作って売るとしよう」


 伊賀は京から程近く、伊勢と近江、山城、大和に繋がる街道を抱えており、流通の面では非常に優秀な立地である。つまり作った物をすぐに運搬して売ることができるのだ。


「伊賀独自の物にございますか?」


 田屋磐琇が眉を歪めて復唱する。


「ああ。まず伊賀焼の生産促進だ。信楽焼とは異なる独自の意匠や装飾性をつける。折角の技術をこのまま埋もれさせたくはないからな。ただそれだけでは優位性がないので、新しい焼き物作りを試してみたい。趙犀庵、伊賀では猪や鹿、狼などの害獣はいかがしておる?」

「はっ、古より肉食は禁じられてはおりますが、伊賀は貧しいゆえに害獣の肉は貴重な食料として民が食しておりまする。伊賀守様にはお詫びいたしまする」

「いや、謝らずともよい。加賀でも害獣は食しておったし、肉食は健康で長生きするためには必要だと思うぞ。それで、肉を食った後の獣の骨はいかがしておる?」

「骨、でございますか? 骨は山に埋めておりまするが?」

「やはりそうか。実はな、獣の骨を焼いて砕いた骨灰を陶土に混ぜて高温で焼くと、磁器が作れるらしい。南蛮ではそうやって作っているそうだ。一番適しているのは牛の骨らしいが、牛は貴重ゆえ、代わりに鹿や猪の骨で試してみるといい。それと磁器に向いていない骨の灰は捨てずに、土の痩せた畑に撒けば良い肥やしになるそうだぞ」

「なんと、磁器が作れるとは!」


 伊賀の土壌には豊富な陶土が含まれており、陶器の生産に適している。ただ北隣には陶器で有名な信楽があり、焼物においては優位性がない。ただ信楽焼は単純で工夫が見えず、統一的で個性が薄かった。『伊賀に耳あり、信楽に耳なし』と称されるように、後世で特徴的な造形にすることで差別化を図るわけだ。それに加えて茶の湯に用いる茶碗、茶壺、茶入、花入なども作らせ、種類を豊富に揃えたい。


 だが、それだけでは全国で数多ある陶器の中では埋没してしまう。そこで日本ではまだ明からの輸入でしか手に入らない磁器、それもイギリスで十八世紀に発明されたボーンチャイナの製作を提案してみたのだ。


 史実において、戦国時代の末期には信楽焼との競争に負けたからか、伊賀焼は生産されなくなった。今も伊賀焼職人は年々減少傾向にあるそうだが、もしボーンチャイナ作りが成功すれば一躍、伊賀の特産品になるだろう。そういえば加賀にも九谷焼があったな。だが陶石が見つかった九谷村は朝倉領の江沼郡にある。当分は諦めるしかないだろうな。


「それだけではない。木津川や柘植川から離れた場所での水田開発を進める」


 この時代の一般的な米作りは陸稲であったが、加賀南部では本願寺の統治下にあって以前から水田の開発が進んでいた。このノウハウを現在加賀全域で少しずつ広めており、それに加えて踏車の普及で水利の悪い地域にも簡易水路や畝を設けることで水を運び、石高の大幅なアップを狙っている。ただ、伊賀は陶器を作るのに適した土壌である一方で、渇水によってヒビが入り、大きな打撃を受ける土地柄であった。そのため伊賀全土に広めるとなると骨が折れるが、踏車の設置で簡易水路や畝を設け、加賀でも行っていた正条植えと塩水選を行うことで、来年の秋には収穫量を大幅に増加させたい。


 また、味方した伊賀衆の土地をそのまま安堵し、一方で敵対した北伊賀勢の土地を召し上げたこともあり、冨樫家の直轄地は旧植田、音羽、家喜の領地となったので、本拠として城郭を築きたい。


 伊賀には外敵から土地を守るため無数の砦や城郭が築かれているが、維持できず放置されているものも多く、そんなものに何も価値はない。俺はそれらを破却して木材や石材などの廃材を本拠の築城に活用することにした。


 本拠地としては柘植川の支流である滝川と宮川に近接した壬生野城を選んだ。近在の土豪が共同の詰城として整備しており、天正伊賀の乱でも最後まで戦った堅城だ。沢砦、五百田砦、大柴砦、沢村砦といった砦に囲まれているほか、北側には宮川を利用した水掘があり、周囲にもその水利を利用した水田があったため、「泥田」となって攻めにくい構造となっていた。また、北伊勢と大和を結ぶ大和街道や柘植川の水運を利用すれば、城や砦を破却した際に廃材の運搬も迅速に行える。


 ただ城郭自体は朽ちかけており、全く修繕された痕跡がなかった。近年は外敵に攻められる機会もなく、籠城する必要性が薄かったのだろう。それでも基礎部分はしっかりと残っているので、これを活用して国司として相応しい大規模な城郭を建造するつもりだ。新たな統治者として威光と財力を見せつける意味もある。


 伊賀平定がわずかひと月で相成ったが、これで六角家の面々も俺のことを認めるだろう。義賢の反応を見るのが楽しみだ。

 

 

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