田丸城の夜襲
天文七年(一五三八年) 1月 伊勢国田丸城
半夜の夜空は澄んでおり、守衛が立つ城門の松明の光もはっきりと見える。北の丸・本丸・二の丸が城の西側にあり、東側や北側は比較的守備が甘くなっている。その分二重に堀が設けられており、攻められてもある程度は防御できる態勢となっていた。田丸城の北や西には関所がいくつも設けられている反面、東側周辺の街道は防備が甘くなっているのは東からの侵攻を想定していないゆえのものだろう。
闇夜の下とはいえ、1500もの軍勢が動けば露見する可能性は低くない。宮川を上り東からの上陸を試みたのは正解と言える。河床が低く急流である宮川も、川並衆にとってはお手の物だった。
「防備がやけに甘いな」
「仕方なかろう。六角との戦で多くの兵を失ったのだ。大半の兵は大河内城に参集しておるらしい」
「北畠三御所となれば労苦を負うのも致し方ないと言ったところか」
「ここは前線ではないゆえ、尚更だ」
蜂須賀小六と坪内友定は城下の商人屋敷で城と周辺の地図を入手し、城の構造をいち早く把握していた。地図から南側にある搦手口の存在を知り、少数での精鋭部隊によって本丸に潜入した。
「何事だ」
本丸が突如として慌ただしく揺れ、田丸具忠が眉間に皺を寄せながら外に控えていた小姓に尋ねる。しかし一向に帰ってこない返事に一層表情を険しくした具忠は、襖を乱雑に開いた。
と次の瞬間、具忠の首筋に刃物が伝う。
「少しでも動けば命はない」
「お主、何者だ。いや、愚問であるな。六角の手の者か。ここまで如何にして来た」
「……」
「まあよい。ここで声を荒げたところで無意味ゆえな」
達観したように腹の据わった態度を見せる。少しの沈黙ののち、三井延高が具忠の前に姿を現す。
「この城はすでに1500の兵で包囲されている。そして貴殿の御命も我らが手に委ねられた。如何なる策も通じぬ」
「この命を差し出せば、他の者は助命してもらえぬか?」
「命は奪わぬ。戦が終わるまで、当家で拘束させていただく」
「助命する意味などなかろう」
「わざわざ愚直に正面から北畠を切り崩すのは少々手間ゆえ」
「求心力の乏しい北畠宗家と有力家臣の関係に亀裂をもたらし、内部分裂を図るという狙いか」
鋭い具忠は小さく息を吐く。田丸具忠を亡き者にするのではなく、あえて田丸を生かして北畠滅亡後に最低限の扱いは保証することで北畠家臣が降伏しやすい土壌を作ろうとした。具忠は北畠家中でも指折りの穏健派であるからだ。
北畠の分家筆頭格である三家は、北畠家を指揮する星合親泰の長男である大河内具良が当主を務める大河内、親泰の次男である坂内親能が当主を務める坂内、そして親泰の甥である田丸具忠が当主を務める田丸御所の3つとなっている。親泰との関係性を見ても、盤石な体制のように思えた。
「風の噂だが、貴殿と星合中納言はあまり仲が宜しくないとか」
「ふっ、内情をよく存じておる。六角の間者は優秀であるな」
軽快に笑う具忠には、余裕と同時に自嘲のようなものも浮かんでいる。
「六角に傾きつつあった南伊勢をつつき、六角と刃を交えんとする好戦的な構えに反対したのよ。南伊賀からの奉公が途絶えたところで、大した痛手にはならぬと思うておったのだ。そしてまだ様子を見るべきだと忠言した。それが伯父上は気に食わなんだ」
元々は英主・北畠晴具の下にあって両者は良好な関係を築いていた。それが長野攻めを機に変貌したのだ。それが余裕のない家中の状況に起因したことは想像に難くない。そして焦燥に駆られ六角との対決を選択した結果、北畠家は窮地に追い詰められている。その事実は親泰の自尊心に傷をつけ、両者の間に生じた亀裂は修復不可能なものになりつつあった。
「もはや伯父上は止められぬであろう。六角の勢い、いや、左近衛権中将の策は我らを凌駕しておる。若造にこれ以上振り回されてたまるか、そんな伯父上の執念が顔を合わせて話さずとも伝わってくるわ」
話を聞いていた三井延高にも、思うところがあった。若年、そして外様である延高は、武田家で重臣、特に主に歳を取った者に才覚を妬まれ、排斥されてきた。具忠の言う『執念』に、延高は同じものを感じ取ったのだ。
「如何なる若さであっても、我が殿は才覚を適切に見定め、若さ故にそれを蔑む者を絶対に許さない、そんな御方にござる」
「当家の血統主義は、少々行き過ぎていた。それゆえの崩壊なのであろうな」
朝靄けぶる田丸城は城兵がほぼ出払っていたことに加え、夜間で咄嗟の対応が出来なかったこと、城主の田丸具忠が拘束されたことから、双方の犠牲は殆どなく落城した。
この報せを受け、北畠城に激震が走る。田丸城の落城は即ち宮川右岸の神宮領を除く度会郡全土の失陥を意味し、多大な影響は避けられない。星合親泰はすぐさま援軍を送ることを検討するも、大河内城と北部を手薄にすることは最も避けねばならないことでもあった。冷静に状況を俯瞰した親泰は、田丸城を捨てる判断を下すに至る。
しかし、結果的に実の弟を見捨てる恰好となったことから、多くの諸侯が北畠、そして後見の星合に猜疑心を抱く。血筋への誇りが元々高い北畠諸侯にとって、後見に過ぎない星合親泰によって家の命運が握られている事実が、その心を引き離しつつあった。北畠晴具という大黒柱を失った北畠家はもはやボロボロだった。
幼年の北畠具教にその家臣団をまとめる力はない。八知での晴具の討死によって、すでに雌雄は決していたのだ。
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