第35話-空気姫と高校デビュー④

「――あたしを、殺したんだ」


 その瞬間、俺は見た。


 姫野も有巣に負けず綺麗で整った顔立ちをしていて、すれ違ったら振り返ってしまいそうな可愛さがある。そんな姫野は人の心を動かすような多彩な表情を持っていて、しょっちゅう泣き、笑い、それらが姫野を作り上げ、みんなから愛されている。


 その姫野の完全に無の表情。闇がそのまま顔を出したような、おそれすら感じるそれを。

 それが姫野の本物であることを……さとった。


「自分を……殺した?」

「そうだよ。亡き者にしようとしたの」


 唾を飲む俺を横目に姫野は朗らかに笑う。


「髪を短くして、メイクして、ファッション誌研究して、愛される性格とか、笑顔の作り方とか、泣きマネの練習とか……。それまでの姫野凛を抹消まっしょうして全く違う人間にしたの。そうすればもう、あんな想いしなくて済むって。空気とは正反対のような、みんながあたしの事をかまってくれるような人間になりたいって……思った。」


 いつも同じ姫野を見ているようには思えない。そう言った有巣は感覚的に気づいていたのかもしれない。


「それに同中の人がいたら台無しだから、わざわざ地元から遠いこの学校を選んで受験もした。新しい土地に新しいあたし。もう面影すら残ってないもんねっ!」


 キャラ作りとか、高校デビューとか、そんな簡単なものじゃない。自分を殺すという言葉の裏にある姫野の闇は、きっと俺では測りきれないくらい深い。


「どう? うまく殺せたでしょ。ホームズだってわからない完全犯罪!」


 しかし、こんなにも大きな闇を抱えているのに、なぜ姫野は笑顔でいられるのだろう。


「今のあたしは天然キャラを確立し、ふわモテ系を極めつつあるっ! みんなに無視されることもなくなったし、大成功でしょ? 優馬くんもそう思わない?」


 なぜ健気にガッツポーズなんかしているのだろう。

 姫野は俺を覗きこんで、くりくりとした瞳を向ける。


 今、俺の目の前で笑っているこいつは姫野凛を消して、その上に新しく上書きした姫野凛だ。こいつは姫野であって、姫野ではない。


 でも、なんでだよ。大成功なんて。自分を殺して成功だなんて。

 それじゃあ一年前の姫野凛は、正しかったそいつは……。

 髪と一緒に切り捨てられ、メイクで上から塗りつぶされた姫野凛があまりにも――、


「可哀想だ」


 その言葉はさえぎられることなく、腹から出てきた。


 別に姫野のしたことを否定するわけじゃない。むしろ、あの写真からここまでになったんだ。相当の努力をしたはずだし、十分なほど尊敬に値する。

 けど俺は認めたくなかった。


 姫野が目を見開くのがわかる。今まで見たことのない姫野凛がそこにいた。

 思わず身を引いてしまいそうな畏怖いふすべき表情がそこにあった。


「ち、ちょっ、優馬くん。なに言ってんの? あたしは――」

「姫野。おまえ、それで本当によかったのかよ」


 有巣だけじゃない。俺もきっと気づいていたんだ。本物がそこにいることを。

 いくら切り離しても、塗り消しても、本物の姫野凛は俺の目の前にいた。


 一緒に部活をすることを心から喜んだ姫野。島崎の前で俺と有巣を想って叫んだ姫野。そして、自分を殺したことをつぐなうかのように、薄暗い闇の中から聞こえた声。


 俺はそいつらを見逃して、くしたくなかった。

 自分自身にまで見捨てられたら、いったい、そいつはどうしたらいいんだ。

 誰か、一人だけでも、そいつをちゃんと認めてやらないといけないんだ。

 決して失われるべきではないが、そこにはあった。


 そしてそれは、俺が失ってしまったものとよく似ていた気がしたんだ。

 だから、今の姫野から強く浴びせられる威圧的な視線から、俺は目を逸らさない。


「それで本当の姫野凛は、成功なんかしてるのかよ!」


 俺は精一杯の力を込めて姫野に訴える。

 できるだけ真摯しんしに伝わるように。姫野の瞳の奥、底が見えない黒い沼の中で眠っている、そいつに俺は問いかけた。


 返事は――


「そ、そんなの……」


 姫野の肩が、手が、震えた。

 口を押えて、苦しそうに浅い呼吸をしながら、姫野は言葉を絞り出す。


「そんなの成功なわけないじゃん!!」


 ――あった。


 姫野の笑顔は崩れ落ち、まぶたからは涙がすべる。

 そして、それは大粒になり、ぼたぼたとももに落ちては弾ける。

 どうやら姫野の引き金を引いてしまったらしい。


 でも俺はそれで嬉しかった。嬉しいとは少し違うかもしれないが、悪い気はしなかった。

 だって、まだそいつはってわかったから。

 死んでいなければ、まだなんとかなるって、そう思ったから。


「なんで、なんでよっ! 優馬くんなら、もっと優しい言葉をかけてくれると思ったのに……」


 姫野は責めるように俺をにらむ。


「あたしだって、わかってるよ……。こんなあたし……偽物だって! けど、こうしないとあたしはあたしでいられなくなるの! 裏切られる辛さが、存在すら否定される苦痛が……優馬くんにわかるの?」


 怒りやら失望やら悲しみやらが籠った視線が一心に俺を焼き尽くす。


「それは……」


 俺は返すことができなかった。

 踏み込んだはいいものの、それに見合う答えを持っていなかったのだ。

 姫野の痛みを理解してやることなんて到底、無理だ。

 ならば、俺はいったいどうしてやれば……。


「――ったく。そんなこと、理解できるわけないだろうが。理不尽な質問をするな」


 答えが見つからず、すべてが止まる時間の中。覚えのある澄んだ声が後ろから聞こえる。

 そして、それはいつになく冷ややかだった。

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