第31話-有巣と姫野と友情と ④
「だぁぁー! もう一杯!」
「そんなに飲んだら、腹壊すぞ」
「これが呑まずにいられるか!」
姫野が帰ってからの有巣は、やけ酒でも
有巣は手渡したおかわりをぶんどると、花柄の瓶から角砂糖を取り出す。
「あっ! またそんなに入れやがって……。糖尿になるからな」
「うるさい。今はこれが適量だ!」
一杯につき四つ。これで七杯目だから計二十八個の糖分が有巣に吸収されたことになる。
俺が部屋の隅にあるⅠHコンロでお湯を沸かし直していると、カップを置く音と小さな溜め息が聞こえた。
「わたしはいつも……、いや、昔からこうなんだ。気にも止めなくていいような小さいことに
火を細めて振りかえると、有巣が暗い視線をカップに落していた。
「いつもは一人で全て受け入れるからいいが、今回は姫野を巻き込む形になってしまった。もちろん貴様も……。すまなかった」
静かな懺悔が、揺れる蒸気に溶け込んでいく。俺は黙って頷いた。
有巣はカップを持つと立ち上がり、俺の前へ歩み寄る。
「なあ、やはりわたしは間違っているのか?」
切ない瞳が俺を見つめる。
「別に間違ってはいないと思う。正しくもないとは思うけど……」
「正しくないは間違っているのと変わらないだろう」
「それは少し違う……んじゃないか?」
悲しげな瞳にうまく返事をすることができなかった。
有巣は弱々しく髪をすくと小さく息を吐く。
「あの時は頭に血が登ってしまっていたが、今は本当に姫野に申し訳ないと思っている。悔しいが島崎の言うことはもっともだ」
「意外と素直だな」
「当たり前だ。わたしは素直で律儀な性格なんだ」
「……それはどうだろうか」
有巣はきっ、と
「そうだな。わたしは素直じゃない。だから失敗するんだ。今も、そしてあの時も……」
ほんの一歩前まで近づいていた有巣は憂わしげに俺を見上げて、
「――なあ、武者小路優馬。なにかわたしにしてほしいことはないか?」
それは突然だった。じっと見つめる有巣は今まで見たことが無いほど真剣な顔をしていて、俺は思わず生唾を飲む。
「なにかしてほしいって……」
俺が有巣の顔をまじまじと見つめ返すと有巣はなにか気付いたように顔を真っ赤にして、後ろに飛び退いた。そして両腕で自分の身体を守るように縮こまる。
「ま、まさかわたしにあんな事やこんな事を要求しようとしているんじゃないだろうな!?」
「え……? あっ! いやそういうことを考えているわけじゃ……ってラブコメのお決まりネタみたいなこと言ってんじゃねー!!」
有巣は俺に侮蔑の眼差しをぐさぐさと浴びせかけてくる。
「へ……変態! 卑猥、邪淫、発情犬、好色武者、強姦魔!!」
「ひどい。そこまで言わなくても……」
「本当のことを言っただけだ」
「だから、それがいけないんだって。いつも一言余計だし」
有巣はむすっとして目尻を吊り上げる。
「あと、その嫌悪感だだ漏れの表情もどうにかならないのか。せっかく可愛い顔なのにもったいない。というか美人だからなおさら恐い」
渋い目で指摘すると有巣は
「ん、……んなっ! き、貴様は、なんでそういう事を平然と言えるんだ!」
怒りだしたようだ。顔がより朱色に染まる。
「そりゃ、その顔が恐いからだよ」
「それではない! それではなくて……」
「なんだよ」
「その、か……、かわぃ――」
「皮?」
俺が尋ねると有巣はぐぅ、と唸って鋭く睨みつけてきた。
「もうなんでもない! この女ったらし武者!」
「女ったらしって、なんでだよ!」
「黙れ変態!」
急にそっぽを向いて髪先をぐるぐると指に絡める有巣。さっきから好き放題変態呼ばわりしてくれやがって。あいかわらず口が悪い。
そうだ。口が悪いと言えば、決定的なことが一つ。
「なにかしてほしいって言うなら、とりあえず貴様って呼ぶのやめてくれないか?」
絡ませた指を見つめながら有巣は頷く。
怒ってるわりには随分と聞き分けがいいな。
「聞いてるのか?」
「……は、えっ? なんだ?」
聞いてないし。訳もわからず有巣はもじもじとして、上の空という顔をしている。
「だから貴様って言うのやめてくれよ。上から目線というか、威圧的というか……、普通に名前でいいじゃないか。特に俺達は一年間同じ部活の部員として過ごすんだしさ」
「確かにな……。それは一理ある」
「姫野なんか
「ぐぅ……、言い返せん。このわたしを理詰めるとは不愉快だ。発情男のくせに」
ぶつくさ文句を言うと、再び有巣はまた不快感を顕わに俺を見つめる。
「武者野小路って、呼びにくい。厄介だな」
「おい。全国の武者野小路姓に謝れ。あまりいないけど」
俺は額に手を充ててため息をついた。
「でも実際それはよく言われる。だから優馬でいいよ」
「いっ、いいのか? 名前で呼んでも?」
目をまん丸にして凝視してくる有巣に俺は気にも留めずに頷く。
「そうか……。じゃあ凛と……
「おい。どっからそれにいった? 馬しか合ってねえ。しかも表記上だし!」
「冗談だ。UMAなUMA」
なぜだろう。今ネッシーとかチュパカブラが頭をよぎったような気がする。
未確認生物と自分が手を繋いで並んでいる姿を想像してると、少しうわずったような咳払いが聞こえて、
「じゃあ改めて……、ゆ、優馬」
ぎこちなく名前を呼ぶ声が耳を通りすぎる。
向き合った有巣の柔らかそうな顔からはまだ赤みが抜けておらず、定まらない視線を俺の首筋辺りに送っていた。
「ん?」
「な、なんでもない。それより凛の件なんだが、いったい奴等はどういう関係なのだろうな。優馬は心当たりがないか?」
「いや、俺もさっぱりわからん。とにかく同中らしいけど、ずいぶん嫌な感じだったよな」
「その表現はかなり抽象的だな。だが同感だ」
「それに空気姫とか、変わったとか……。姫野になにがあったんだろうな」
有巣は考え込み、二人して
「少なくとも島崎は凛の中学時代のことをよく知っている。そしてそれは凛にとってなにかしらの弱みだと言えるということだ」
有巣が言っている事はもっともだろう。しかし、
「でも最初は姫野に気付いてなかったみたいだよな」
「そうだ。それもそれで疑問だ」
よく知っていながら顔もわからないなんてことがあるのだろうか。そもそも先輩と後輩だし、知り合いなら多少なりとも過去に関係があったはずだろう。
でもそれなら一目見て気付くのではないかと思う。
「あともう一つ気になることがあるのだが……」
二人の関係を見出だすのに、そろそろ思考が追い付かなくなってきたところで有巣の瞳が険しく光る。そして言いかけて口を開いたが、目をそらせて一度閉じる。
「なんだよ、気になることって?」
「うむ。これは思い違いかもしれないし、どう説明してよいかわからないが……」
少し言葉を選んでためらうように有巣は言った。
「わたしには凛がわからない。いつも同じ姫野凛を見ているようには思えないのだ」
それはどういうことなのだろう。不思議に思う俺に有巣は説明を加える。
「良く言えば表情の多彩さとも言えるのだろうが……。しょっちゅう泣いたり、馬鹿みたいに笑ったり、そして文芸部のあれだ」
「まあ変なとこがあるよな」
「……そんな簡単な言葉で流せるようなことではないと思う」
有巣は険しい目を俺に向ける。
「それに普段はすぐに泣くくせに、島崎と向き合っていた時の凛は涙を流さなかった」
確かに、と俺は思った。ユ涙姫とまで呼ばれ、涙を流すのが当然のようになっている姫野が、あの時は必死に堪えているようにも見えたのだ。
「わからない。姫野凛という器の中に何人かの別の存在が居座っているような……」
「ますますわからなくなってきた」
俺と有巣の視線が交わる。
「じゃあ優馬には凛がどう見えているんだ?」
「俺には……か。簡潔に言っちゃうと、すごい身勝手で自由、向こう見ずな印象かな。そして天然」
「そう、それだ! それなのに凛はいつも人の顔色をうかがっていて、いつもなにかに怯えているように見える。言動と雰囲気が真逆に感じる」
「そうなのか?」
「実際はどうかわからんがな」
俺は「なんだよ……」とコンロ台にもたれかかった。
「だからこれはわたしの思い違いかもしれないと言っただろ」
有巣は俺の隣、シンクに飲み干したカップを置くと姫野にきつく握り占められていた右手を左手で優しく包み込む。
「でもわかっていることが一つだけある」
優しく目を細める有巣に俺は首をかしげた。
「凛は……、とても優しい子なのだと思う」
驚いた。有巣からそんな言葉が出るなんて。基本的に罵倒や悪口を巻き散らかしているために、誰かを思いやる姿は熱でもあるのかと思うくらいだ。
包み込んだ右手をそのまま左胸に運び、有巣は静かに瞼を閉じる。
「ここからの話は笑ってもらって構わない。むしろ独り言とでも受け取ってくれ」
すぐ隣には有巣の小さいつむじが遠慮がちに顔をのぞかせている。
澄み切った白い肌は優しく潤い、明るい光をいっぱいに取り込んでいた。
「凛が島崎の前でわたしのことを大切な友達だ。と言ってくれた時、言葉じゃ表せないくらい嬉しかった」
有巣は少し恥ずかしそうに笑う。
「なにせ友達だと言われたことが初めてだったからな。わかると思うが、わたしに友達だと言える存在は今の先程まで一人もいなかった」
俺は黙ってそれを聞く。
「だから正直あの時は思考が止まったよ。鳥肌が立って、全身の毛穴が息を吹き返すように広がった。怒りがさっと消えて、ただ
確かに有巣は姫野が叫んだのを機に急に静まっていた。そういうことだったのかと今になって納得する。
「情けないだろ。このわたしが、だぞ。笑えないか?」
有巣はゆっくり瞼を起こして、俺を挑発的に見る。
「独り言じゃなかったのか? それに笑う気にはならねえよ」
「でも聞いてたんだろ」
「そりゃあ……」
有巣はくすっと微笑み、俺と同じようにシンクにもたれかかる。
「正直なことを言うと部活に勧誘された時から嬉しかった。なかなか話かけてくれる人間もいないからな。別にわたしだって、好んで一人でいるわけじゃない」
それは裏返すと、寂しいということなのだろうか。
当たり前だ。誰しも孤独は辛い。有巣だって俺たちと変わらない普通の女子高生なのだ。
「でも友達って……千鶴さんはどうなんだよ?」
「姉様は友達というよりも恩人だからな。それは違うカテゴリーだ」
「そういうもんなのか?」
有巣は頷くと切ない色を
「それに友達は今まで作らないと決めていたんだ」
「どうして?」
「昔、大切な人と約束したんだ。その約束が果たされるまでは友達は作らないって……」
有巣はきゅっと肩を抱く。その瞳は暗く光を落としていた。
「そんな酷い約束してくるなんて、とんでもない人だな」
そう言うと有巣は遠い目で俺を見ながら、ぷふっと噴き出す。
「ああ、本当だよ。本当にとんでもない人だった。結局、他の約束もすべて叶わないままいなくなってしまったからな」
「なんだ? 引っ越しちまったのか?」
有巣は、くしゃっと微笑みを崩すと一歩大きく前へ出る。背中越しに寂しそうな声が聞こえた。
「そうだ。あの世にな」
開いた窓から入る風が有巣の黒い髪をやんわりと
「え……。ご、ごめん。そんなつもりじゃ……」
「いや、優馬が謝る必要はないんだ。絶対に」
そして
「それに優馬のおかげで約束が一つ果たせた。ありがとう」
どくん。と左胸がうずく。
まただ。その赤みを帯びた瞳に、悲しそうな言葉に、弱く開いた口元に、少し前にのり出した小さい体躯に。俺の心臓は強く握られるように荒立てる。
「お、おう! よくわからないけど、俺にできることがあったらなんでも言ってくれ!」
切なく映った有巣のそれが助けを求めているようで、俺はすでに言葉を発している。
「なんでも……してくれるのか?」
「おぅ! もちろん、できる範囲でだけど、なんでもだ!」
有巣は口元を押さえて、呆れたように笑った。
「その言葉、ちゃんと覚えておけよ! な・ん・で・も・だぞ」
あれ、おかしいな。さっきまでなにかしてほしいことはないかと聞かれた俺が、真逆の立場になっている。有巣はわざとらしく眉毛を動かしてにやにやしていた。
「うっ、言わなきゃよかった……」
「残念! もう取り消すことはできない! ほら見てみろ!」
有巣はブレザーのポケットからスマートフォンを取り出して、画面を点ける。
「ん? 『ボイスレコーダーアプリ実行中』――って、いつのまに!?」
「これは証拠として厳重に保管しておく!!」
「消せっ! 俺のなんらかの権利が犯されている気がする!」
俺は有巣の携帯電話に手を伸ばす。しかし、パシンと弾かれた。
「断る! こいつは一生モノだ! これで優馬もめでたく、わたしの
有巣はニターっと不敵な笑みを満面にワンターンして手でピストルを構え、「ばーん」と明るい声で引き金を引いた。
「嘘だろ……、やられた」
「ふふふ。貴様は損するタイプの人間だな」
「ごもっともだよ……」
それは自分が一番わかってる。
困っている人間がいると放っておけないというか、なんというか。
考える前に身体は、口は、脊髄反射のように動いていく。そして動いてから後悔する。だからこれは呪いなんだ。
俺が頭を抱えて唸っていると有巣はソファーにちょこんと座り直した。
「さて、凛のことだが、今日の二の舞にはならないようにわたしも気を付ける。友達を傷付けるようでは、友としても部長としても失格だからな! そして今後は凛が困った時に助けてやる! いいな?」
「……了解です。部長殿」
「それはそうと、なんかわたし、今日一日で人間としてだいぶ成長した気がするぞ!!」
目を
「それに今のわたし……かなり素直じゃないか!?」
「ボイスレコーダーの件が無ければな」
有巣は一瞬むっとしたが、穏やかな面持ちで続ける。
「優馬には不思議な力があるな。前もそうだったみたいに、貴様の前だと胸にとどめていたことが勝手にこぼれてくるようだ」
「そりゃあ、どうも」
そして有巣は社長席の隣に設置されているハンモックに腰を移すと、細い指で縫い目をなぞる。切なくも、ほのかに甘い表情で小さく呟いた。
「きっと、そういう遺伝子なのだろうな」
「遺伝子? それって、どういう――」
「おっと、まだそこにいるということはわたしに紅茶を
「おい。なにがいいぞ、だ。俺は有巣の執事さんじゃないんだぞ。それに飲み過ぎだ」
俺が文句を垂れると有巣は無垢な笑顔で携帯を取り出し、スイッチを入れる。
『な、なんでも……してくれるのか?』
『おぅ! もちろん、できる範囲でだけど、なんでもだ!』
上手くトリミングされたやり取りが流され、有巣があまりにも澄んだ笑顔でにっこりと見つめてくるもんだから、
「わかった、わかった。やるよ、やればいんだろ!」
俺は沸いた湯を再びポットに移す作業に入らざるをえなかった。
有巣はこっちの調子が狂いそうになるほど晴れやかな表情で足をぶらつかせている。
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