第32話-空気姫と高校デビュー①


【緩涙姫と高校デビュー】

 今回の特ダネは一年生、某H氏についての高校デビュー疑惑!

 入学して間もなく天然キャラで校内女子ランキング不動の上位を確立したH氏ですが、実はキャラ作りだという疑惑を本掲示板は掴みました。


 画像も含め、情報提供してくれた島田氏(仮名)によると、中学校時代のH氏はしっかりもので学級委員やクラス委員長を歴任するとい人望の厚い優等生だったとのこと。現在のH氏とは正反対のように思えますね。


 しかし、H氏はある事件を境に不登校になってしまったようです。当時の渾名あだなは『空気姫』ということで、名前の通り空気のような扱いであったようです。


 島田氏(仮名)は「H氏は空白のときを経て新しいスタートを切ったのだ」と語ります。


 その真相とH氏の高校デビューの関係をこれからも本掲示板では迫っていきたいと思います。不登校として一人泣き過ごした空白の時を彼女は埋めていくことはできるのでしょうか。(笑)


***


 文芸部との一件があった翌朝。

 眠たい目を擦りながら朝日がめいっぱい差し込む廊下を歩く。


 始業を控えたこの時間はまばらに騒がしく、教室をまたいで友人と談話を楽しんだり、早くも放課後の約束を取り付けたりする生徒も多い。


 今朝はなにやら、どこもかしかもスマートフォンを片手に噂話にきょうじているようだ。高校生がスマホ装備で話に花を咲かすのは違和感のないことだが、俺は少し奇妙に感じた。


 通り過ぎた男女グループからは、


『あれってキャラ作りだったの!? ありえないんですけどー』

『俺、ファンだったから余計ショックだ』

『たしかにあんなに涙が出るって……。なんか嘘っぽいよね』


 など、侮蔑ぶべつ遺憾いかんをはらませた声が聞こえ、あちこちで同じやり取りを交わしている。


 そういえば以前は有巣をフっただのなんだので俺もこれの対象だったと思うと、なぜか他人事には感じられないな。とか頭をきながら最端である自分の教室へ向かう。


 朝の廊下で最果てというのは気持ち的にも予想以上に遠い。もう少し、とひとつ前の教室に差し掛かろうとした時だった。


 目の前のアルミ戸が粗い音を立てて開き、急に飛び出してきた女子生徒がどすん、と俺の胸元でうずくまる。不運にもそいつの肘は俺のみぞおちにヒットしていた。


「うぐっ!」と俺。

「ふぎゅっ!」と女。


 痛みと状況把握のために視線を落としたそこには見慣れた栗毛と橙色オレンジのカチューシャ。


「姫野……か?」


 俺の知る中で、こんなドジ丸出しにぶつかってくるやつは姫野しかいない。

 姫野が頭をあげる。その顔はぶつかった衝撃で赤くなって――いや、違う。ぶつかったからではない。すでに大粒の涙がぼろぼろと真っ赤になった頬を伝って落ちていた。


 泣いている。といえばいつも通りだが、ひくついて嗚咽おえつこらえている姫野はいつも通りとはとても言いがたく、


「お、おい……どうしたんだ?」


 自然にそんな言葉をかけざるを得ないほど、悲痛にゆがんでいた。

 姫野は俺になにかを訴えようとしていたが、むせんで言葉にならない。


「ちょっ、いったいどうしたんだよ!?」


 いつの間にか周りの喧噪けんそうも止み、連中もただならぬこの状況に注目してくる。教室から盗み見るようにして顔をのぞかせるやつも若干名いる。


 だが、


『あ、空気姫だ……』

『あと、あれって八組の優男じゃん。泣きつかれちゃってるよー』

『あの涙も偽物!?』


 と心配しているそれでは無かった。

 浴びせられる視線は不安や気遣いというより、不信と軽蔑。


 胸元で泣き続ける姫野と野次馬からの異質な重圧に困惑していると、群衆の向こうから賑やかな茶髪がこちらに向かってくる。この重苦しい空気を微塵みじんも感じさせない新田だ。 


「優馬、聞いてくれよ! ビックニュースがある……。あっ、ひめっち……」


 片手にスマートフォンを持った新田は目の前で涙をこする姫野を発見すると、ばつが悪そうな顔で固まった。


 そんな新田を起点にここ一帯が急激に沈黙する。

 聞こえるのは姫野のえきれずに溢れる今にも吐きそうな嗚咽のみ。


「おい、みんな、どうしたんだよ? 俺、なにがなんだか――」

「なんでもないよ」


 自分の胸辺りで声がする。

 目線を下げると姫野が一歩下がって、笑顔でそう言った。そしてもう一度口を開く。


「なんでもないよ。大丈夫、大丈夫」


 誰を納得させているのかわからない。それはとても奇妙な笑顔だった。

 口元をひくつかし、目はいっぱいに絞られ、目尻からは涙が流れている。震える声、びくつく肩、か細い右腕は今にも崩れそうな姫野の身体を抱くように添えられていた。


「大丈夫って……おまえ――」


『ほら、こうやってすぐ表情変えられるんじゃん』

『……嘘泣き』


 ギャラリーからぽつりぽつりと声が聞こえ、その一つ一つに姫野の身体は震えを増す。

 そして、俺と一度目を合わせると、


「……ごめん」


 かすれた声で呟いた。


「えっ!? どういうこ――っておい! 姫野!」


 姫野は俺が次の言葉を発する前にその身をひるがえし、人だかりを押しのけて駆け出した。


「朝からどうなってんだよ……」


 俺が呆気にとられていると後ろから肩をつつかれる。ツーテイク目の新田だ。


「優馬に言っても仕方ない事なんだけど……とりあえず、すまん」


 新田は一度、頭を下げると「これを見てくれ」と携帯を差し出した。


「――《星砂高校・裏掲示板》?」


 そう書かれたネオン色と黒い背景のトップ画面。これは属に言う、というかそのまんま裏掲示板ってやつだ。どんなものなのかは俺でもだいたいわかる。

 学生同士のスキャンダルをプライバシーお構いなしにリークしたり、個人や不特定多数の相手の悪口を書き込んだりするものだろう。あまり趣味の良いものとは言えない。


「新田がこんなもん見てるなんて意外だな」


 俺が軽蔑した目を向けると、新田は慌てて両手を正面で振った。


「僕もあまり好きではないけど、今回は特別だよ。事案が事案だからね」


 新田は「優馬はあいかわらず情報にうといから困る」と肩をすくめながら、画面を下へスクロールする。そこに出てきたのは、まず一枚の画像。


 画像には長い黒髪を乱雑に顔の半分にまで被せ、生気のない瞳をした少女が写っていた。

 歳はそう……、俺とあまり大差がないくらいの。

 昼休みの写真だろうか。よれた制服に身を包んだその女子は学校の階段のような場所で一人、パンをかじっている。


「おい、俺はこんな暗い女の写真を見てる場合じゃなくて、姫野が――」

「姫っちが。なら、なおさら見ておくべきだと思うよ」


 珍しく真剣な新田に気おされして、もう一度目をらす。


 画像からは暗い雰囲気が重々しく伝わっていた。その背景に明かりが少ないせいもあるからだろうが、この闇のような空間を作っているのは写っている女子だろう。

 縮こまった身体、長い髪は可哀想になるくらい乱雑で胸元のリボンはいびつに曲がっている。


「なんというか……、スプラッタ映画のポスターみたいだな」


 俺が率直な感想を言うと、新田は信じられないだろ、と眉をしゅんと下げて答える。

 だが、これが姫野となんの関係があるというのだ。「もういいか?」と問うと、新田は首を横に振って、再び画面を下へと流していく。


 そして、そこに出てきたものに俺は目を疑った。


 映し出されたのは馬鹿みたいに派手にデコレーションされた新着トピックスの文字と裏掲示板と呼ばれるにふさわしい心無き誹謗中傷ひぼうちゅうしょう。題名は、


緩涙姫かんるいひめと高校デビュー……?」


 あざけるように書かれた記事を一読して、もう一度写真に目を戻す。


「……なんだよこれ」


 もやがかっていたこの状況に一つの推論が立つ。それと同時に左胸に重石が落ちた。


「新田。緩涙姫って」

ゆるい涙の姫だ」

「ユ涙姫……。じゃあこの写真は……姫野?」


 静かに頷く新田を俺はまじまじと見つめた。


「そうらしいんだ。それで今はあのユ涙姫がキャラ作りだったって話題騒然そうぜんだよ。おまけにこの写真だ。高校デビューにしても激しすぎる」

「いやいや……。なにかの間違いだろ」


 俺は納得できなかった。これが姫野のはずがない。俺の知っている姫野凛は目障めざわりなくらい明るくて、敵無しに天然で、そして……


『中学時代のあたし、自分でも忘れたいくらい嫌いでさ』


 つい昨日の姫野が頭に浮かぶ。

 いや、でも、とには落ちないが、答えは導き出されていた。

 あの悲しげな瞳は、話したくない過去は、これに写る姫野は。


 頭の中で昨日の出来事が一つずつ繋がっていく。島崎が言った空気姫。姫野が言った変わった自分。これに書いてあることが正しいとするならば……。


「酷いよね。誰がこんなことを……」


 首を傾げる新田の横で、自分の息が荒くなっていくのを感じた。

 ふつふつと煮え上がってくるのはドス黒い感情。

 誰が? 姫野の過去を知っている人間はこの学校で一人しかいないはずだ。


 しかし、それよりも、


「酷いのは、これを書いたやつだけなのか?」

「優馬……?」


 血が沸騰ふっとうするっていうのは、きっとこういうことを言うのかもしれない。

 騒ぎ立てる心臓と裏腹に頭の中は冷え切ったように澄んでいた。


「なんで、こんなふざけて書かれた言葉だけを信じるんだ」


 自分でも驚くほどに冷たく放たれたその言葉を、いったいどれだけのやつが聞いただろうか。

 新田は顔を強張らせ、俺と姫野を取り囲んでいた連中がうつむいて後ずさる。


「なんで誰も姫野になぐさめの言葉ひとつかけてやらなかったんだ。なんで冷たく突き放した。なんで止めてやらなかった」


 どっしりとした重い声音こわねが腹からうめくように出る。


「いったい姫野がおまえらになにをしたってんだよ」


 なぜ自分がこんな事を言っているのか、そして俺がこんな事を言う資格があるのか。誰に言っているのか。それは全くわからない。


 けど、きっと、俺は嫌だった。

 見ているだけってのが。辛そうにしている人間を目の前に、見て見ぬ振りをする人間やつらが。


 助けてと叫びたくても叫べない。みんなわかっているはずなのに誰も手を差し伸べようとはしない。そんな想いは自分がするのも、させるのも、俺はもう嫌だった。

 ただ、それだけだった。でも、それが俺を突き動かす。


「新田、悪い。腹痛いからトイレ行ってくる! あと俺のバック頼む」

「おお。……って、もう授業始まるぞ!」

「酷い下痢みたいだから、しばらくかかるかもしれん」


 肩にかけていたスクールバッグをおもむろに投げると、新田は見透かしたように笑った。


 ときに世の中は冷たい。もしかしたらマンモスが大地を牛耳ぎゅうじっていた頃の何倍も。

 転んでいる人がいても無視し、トラブルがあっても見て見ぬフリをする。

 確かに触らぬ神にたたりは無い。割れたガラスに触れると怪我をする。でもその破片は誰かが拾ってやらないと、寂しく地面に横たわったままだ。


 俺はそんなのは嫌だ。いや、俺じゃない。この血がそれを許さないんだ。

 これは呪いだ。いつも気が付いた時には足が動き出している。

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