第33話-空気姫と高校デビュー②

 研究棟の裏、木々に遮られた日射しの届かない一角。始業の鐘がとっくに鳴り、ひときわ静寂で満たされたこの場所の、ぽつんと置かれたベンチに姫野はいた。

 うつむいて顔がよく見えないが、ふんわりとした栗毛にオレンジパーカーの幼い容姿は間違いなくそれだった。


「姫野……だよな?」

「……優馬くん!?」

「ああ。やっと見つけた」


 振り向いた姫野の瞳には今にも零れ落ちそうな程の涙が溜まっている。


「い……いやっ! 今は見ないで! 眼球多汗症が発症してて」

「今はその冗談に笑う気にも、つっこむ気にもなれない」

「うぅ……」

「隣、座っていいか?」


 姫野はわずかに躊躇ちゅうちょしたようだったが、黙ってうなずいた。

 背もたれのない木板のベンチは先日の雨が乾ききっておらず、座るとじっとり冷たい。


「心配したぞ」

「……うん。さっきはごめんね。でも大丈夫だから!」


 姫野はまぶたを擦ると、俺に目を合わせて健気に微笑んだ。涙で水っぽくなった頬はまるで朝露あさつゆですよ、というように爽やかな笑顔で。真っ赤な瞳とひきつった口角をそのままに。

 瞳からあふれる感情を必死で塞き止めているのが痛いほどわかる、むなしい笑顔だった。


「そんなわけあるかよ」

「…………。大じょ――」

「大丈夫なやつがそんな顔するわけないだろ!」


 意図せずに声には力が入っていた。


「ごめん。怒鳴るつもりは無かったんだけど」

「ううん、いいの。あたしこそごめんね。やっぱり大丈夫なんかじゃないんだ」


 姫野の柔らかい目尻からつう、と滴が一つ落ち、無理な笑顔はわずかにくずれる。


「掲示板、見たんだよね?」


 俺はひかえめに肯いた。


「朝、教室に入ったらみんながあたしのこと変な目で見てくるの。普段から仲良かった子にもどことなく距離置かれちゃって。気になって問い詰めたらそれだった」


 ふぅ、と姫野は大きく呼吸を整える。


「それでもう一度周りを見渡したら皆の視線が疑いとか軽蔑とか、そんなふうに思えたの。いや、そうだったんだ。明らかだった。それで恐くなって逃げ出しちゃった」


 姫野は「それで教室をとびだしたら優馬くんにぶつかっちゃった」とあどけなく笑う。


「あの写真……」

「あたしだよ。書いてあることも全部本当のこと」

「そんな……。がせネタだろ?」


 姫野は首を横に振る。信じられなかった。こんなに明るくて元気な姫野が。

 口は開いたが言葉が出てこない。俺は黙ってうつむいた。


 そんな俺に対して、姫野は優しく微笑み、不意に口を開く。


「中学三年の時、不登校だったんだ。夏休み以降は全く行かなかった」


 不登校。それはこのご時世どんな場所でも聞くことだったが、こうして正面から向き合うと、こんなにも重たい。


「ドン引きでしょ?」

「そんなことはないけど。どうして……?」

「聞いちゃう、聞いちゃうー?」


 ふざけたような、あどけない顔を近付ける姫野の頬には、涙が伝ったあとうっすらと線になっている。


 俺は一度ためらったが「話してくれるなら」と踏み込むことにした。ここまで来て何もしないわけにはいかないし、それにやっぱり放っておけなかったのだ。

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