第34話-空気姫と高校デビュー③

「ではでは、今は昔、姫野凛が中学三年生だった頃の話だそうな」

「なんで昔話調なんだよ」

「いいから聞いて。少しでも気分良くいかないと全部崩れちゃうから」


 姫野は芝居じみた口調で笑ったが、目は笑っていない。だから俺は頷くしかない。


「さて、まず中学生のあたしは今とは正反対で、しっかり者で正義感が強かったのです。ズバリできる学級委員長! 大事なこと任せられたり、頼られたり、あたしはそんな自分に誇りを持ってたし、認められてるんだって、そう思ってた」


 自慢じまんげに虚空こくうを指差すと、姫野は大きく息を吸い込み、吐き出す。


「ちょっとそこの男子たちっ! ちゃんと掃除しなさいよ! ……とか言ってたわけ」

「想像できないな」

「でしょー? そんなあたしはサボりとかいじめとか、絶対許せなかった」


 そしてぐっとこぶしをおさえる。


「それで三年の春に同じクラスになった女の子が、それまた同じクラスの男子にいじめられてるところを見たの。噂にはなってたんだけど、あたしは直接見たことなかったから何もできなかった。証拠が無いからね。でもその日とうとう現場を発見したの」

「……それで?」

「もちろん止めに入った。先生呼ぶって言ったら見事に退散。バイバイキーン!」

「すごいじゃんか! なかなかできることじゃないだろ」

「えへへ、すごいでしょ! あたし、めっちゃ良い子だったの!」


 姫野は胸を張り、眩しいくらいに目を輝かす。だからこそ、


「マイナス要素が見当たらないんだけど。なぜ、そんな姫野が不登校になんか?」


 なおさら疑問を感じざるをえなかった。

 すると姫野からは瞬時に輝きが消え、寒そうに手をさする。


「今のがそうだよ」


 俺は首をかしげた。


「あたしは良い子だったの。良い子であることにおごっていた。だからこそ失った」


 ――。そう言った姫野の唇はわずかに震えている。

 喉を鳴らして言葉を絞り出す。それは姫野の負った傷であり、思い出したくない過去。


「あたしはその子と相談して、翌日の教師がいる前でいじめを公にしたの。まだ若い担任だったから、そういうことには慣れてないみたいで慌ててた」


 姫野はそっと自分を抱くように縮こまる。


「すぐに事情聴取が始まったわけ。みんな知ってることだし、すぐ解決できると思ったの。いじめられてた子はもちろん助かるし、いじめっ子も反省してくれればそれで良かった。それで良かっただけなのに――」


 発する度に声は震えてこもっていく。俺は黙って耳を傾けた。


「いじめの事実は無いって、言われちゃった」

「そんな……、誰が……」

「いじめられてた子がそう言ったの。多分それでもっといじめられるのが恐かったんだと思う。もしくはおどされてたのかな? いじめてた奴等がこっち見てニヤニヤしてたし。一発殴っておけばよかったかも」


 そんな勇気は無いけどね、と姫野は苦笑いして天をあおぐ。


「当然、あたしは納得できなくて一所懸命説明したの。みんなにも必死に訴えた。でも、あたしの味方をしてくれる人はいなかったんだ。みんな知ってたはずなのにな」


 助けようとした人間に裏切られ、周りからは見捨てられ、しかし姫野は闘った。


「あたしは一瞬で嘘つきのレッテルを貼られた。みんな目を逸らすし、寝たフリ始める人までいて……すごいショックでさ、その場で倒れて吐いちゃった。大惨事だいさんじだよね」


 けど、想いは実らなかった。

 かすれた声の響きは、俺の胸を痛いほどきつく縛る。


「保健室に運ばれて、教室に戻った時には、もう、あたしの居場所はどこにもなかったの」

「そんな……。結局その子は?」

「その後は普通にみんなと楽しい毎日を送ってたよ。いじめられてないって本人が証言したから、その件は終わり。あたしは嘘つきのゲロゲロ女。これ、どうなると思う?」

「…………」

「ターゲットが移ったんだよ。次のターゲットはあたしだった」


 それでも平然を装う姫野を直視できずに、俺は目を伏せた。

 いじめというのはあまりに理不尽だと思う。その対象に大きな理由があるわけじゃないし、たいした根拠もない。だから姫野のような話も特段、珍しいわけではなかった。


「最初は負けてたまるかって頑張ったんだよ。でもそう思ったら周りが全部敵みたいに思えて。なにも信じられなくなって。家のベッドで泣くことしかできなくなってたの」


 姫野はポケットからオレンジ色のケースに入ったスマホを取り出して、画面を表示する。それは今話題の裏掲示板の新着トピックス。写るのは中学三年の姫野凛。


「いてもいなくてもわからない空気みたいな存在。だから空気姫。この写真はまだ意地張ってた頃のあたし。そういえば非常階段でお昼食べてると面白がって撮ってるやつがいたなー。みんな言うんだよ『空気姫発見! 目視できる!』って。当たり前じゃんね。あたし、そこにいるんだもん」


 姫野は電源を消す。真っ暗な画面には今の姫野がぼんやりと写った。

 木漏れ日が姫野の髪を一層明るく染め、薄い唇は桃色に輝く。

 だが、姫野の黒くて真珠のような瞳は、どこまでも深い闇を見ていた。


「――っと、まあ、こんなどこにでもあるような話なわけですよ。でもあたしにはそれが立ち直れないくらいきつかったの」


 どこにでもあるような話。そう笑う姫野の言葉にきっと間違いは無い。

 たぶんそれは、どこにでもあるようなこと。

 けど、どこにでもあっていい話ではないんだ。

 正しいことをして、なぜ非難を浴びなければならない。なぜ誰も見て見ぬ振りをする。

 しかし、俺は知っていた。


 そして、


「でも、おかげで気付いたの。世の中ってそんなもんなんだって」


 姫野も知っていた。


「別に頼られてもなかったし、認められてもいなかった。あたしが馬鹿みたいに勘違いして、調子乗って、正義感ぶって、それで失敗した。ただそれだけの話だったんだよ。あたしがした事はきっと間違っていない。けど、この世界で生きていくには異端児だった」


 昔テレビで見た正義のヒーロー。

 悪を倒し、弱者を助け、世界はそれを正しさの象徴として認めている。

 尊敬の眼差しを受け、喝采を浴びる。最高にかっこいいじゃないか。自分だって、こんな大人になりたい。誰だって幼心にそう思う。


 でも、そのうち気付く。

 正義のヒーローは現実にいない。いや、現実では成り立たないんだ。


 例えば街中で困っている人がいるとしよう。何人がその人に目を向けるだろうか。

 裏路地でひ弱な少年が、あきらかに筋骨隆々で目つきのすわった連中に金を巻き上げられているとする。それを誰が自分の身を顧みず飛び込んでいこうと思うだろうか。

 それで仮に自分が怪我をしたり、損害を被ることになったら、人々は何と言うだろうか。


『余計なことしなくてよかったのに』


 これが一般論だ。正しいことをしても、結果として間違いや失敗になる。

 世の中ってのはそんなもんだ。

 俺はそれをよく知っていた。理解して苦しんだ。だから、


「だから結局あたしは間違っていたの、その空間では、その集団では、あたしがしたことは正しくなかった。余計な事せずに見過ごすことが普通で常識なんだよね」


 寂しそうに笑う姫野の言葉を否定できなかった。


 いじめっ子を助ける存在は、いじめを成り立たせている集団内ではアブノーマルと言われても不思議じゃない。そう納得してしまう自分自身がなによりも憎たらしい。


 結局、俺は姫野に気の利いた一言もかけてやることができなかった。なにが優男だと呆れるしかない。俺は歯を喰いしばった。


「さて、ここからが重要です!」


 姫野は人差し指をぴんと立てると、かわいた笑顔で暗い新緑しんりょくを見つめる。


「あたしはそんな自分が嫌いになりました。自分も信じられくなったの。正義感にって、余計なことしなければってうらんだし、空気姫になってからの自分なんか鏡見るだけで嫌になった。マンガみたいに鏡を殴ったりしてみたけど、そいつは消えないんだよね。だからあたしは――」


 いつのまにか姫野の両手は胸元で強く握られている。

 そして、言った。


「あたしを、殺したんだ」

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