第52話-ユ涙姫と卒業式⑤

「りぃぃぃん! 頑張れっっっっ!!!!!!!!」


 全てが一瞬だった。


 せせらぎのように澄んだ咆哮がレーザービームのようにすっ飛んで、姫野に衝撃を与えたのが見えた。


 その瞬間、姫野の目がくわっと開き、倒れこむ身体を右足で支える。

 千鶴さんも踏み出した地点で止まり、全ての目が俺の左隣に、有巣麗奈に向く。


『……あ、有巣さん!?』


 姫野は暗がりの観客席から声の主を見つけると、唖然として固まった。


「ここだ! わたしはここにいる。貴様の味方がここにいる! しっかり見ている! だから恐れるな。ちゃんと最後までやりきれ!」


 有巣は充てられる数多の視線を意にもせず堂々と叫ぶと、したり顔で俺に笑った。その強く輝いた瞳には、あほ面を驚きでさらに情けなくした顔の自分が映る。


「……なにやってんだよ、俺」


 答えはいつだってシンプルだ。祈るだけじゃなにも変わらない。自分が求めている物は、成し遂げたいことは、動かなければ始まらない。それはきっとどこかでわかっていた。


 けれど勝手に動いていく自分を俺は心のどこかで嫌っていたのだろう。でも身体は自分の求めている答えを探して勝手に動くんだ。別に他人のためじゃない。俺がそうしたいと思うから、そういうふうに動くんだ。ならば気持ちはそれに従うしかないのだろう。


 逆か? 気持ちがそうだから、身体が勝手に動いて、だからこそ――というか、そんなことは今どうだっていいじゃないか。


 思わず笑えてきた。考えるのをやめて、大きく、深く、口から息を吸いこみながら立ち上がる。横にはいつの間にか腕組みをした有巣が満足げに俺に頷き、ステージでは姫野が今にもしゃくり上げそうな顔でこちらを見ている。


 そして、俺は目をつむって、思いっきり腹に力を入れ、


「姫野、頑張れ! 俺もここにいるっ!! おまえを一人ぼっちになんかしないっ!!」


 身体を前に屈めて声を絞り出した。


『優馬くんまで……』


 顔を上げたら口を歪めた姫野が指で目頭めがしらこするのが見えた。俺はそいつにぐっと親指を立ててみせる。


 周りの視線なんか気にならない。祈って座っているよりもよっぽど気が楽だ。それに、


「意外とすっきりするな」


 だろ。と有巣が得意げに片目を瞑った。


 さっきとは一変して講堂ホールの空気は清々しい……ような気がした。不思議なものでそう思うとそうなってくる。空気は正しい流れを掴むと呼応こおうする。そして風は生まれる。


「じゃあ僕も……姫っちー!! 頑張れー!」


 右からしたのは新田の声だ。


「ヒメリンー!! 助けてあげられなくて、ごめんね。でも私、どんなヒメリンだって構わないからっ! だから戻ってきて!!」


 これはどっかで聞いたことがある。そうだ、姫野のクラスのやつだ。


「姫野さーん! 好きだー! それ、何があっても姫野さんをお守りしまーす!!」


 こいつは……誰だ?


 どこからともなくポツポツと声が聞こえ、それは瞬く間に量を増し、最後には一つの姫野コールになった。周りを見渡すと大半の生徒が立ち上がっては姫野に激励げきれいを送る。


 圧倒的に野太い声が占めているのは気にしないとして、爆発的に盛り上がり始めた会場のステージの中心で、そいつは落ちる涙をそのままに、笑顔みたいな泣き顔をぐしゃっと思いきり崩してへたり込みそうになった。


『皆さん……ごめんなさい。またあたし間違ってた。こんなにあたしのこと、気にかけてくれる人がいる……なのに――』

『おいおい、凛。皆はもう謝罪なんか求めていないんだ。あとは自分がどうしたいのかを言ってみろ。ここは青少年少女の主張コーナーだぞ。謝罪会見じゃあないんだ』


 姫野の肩を千鶴さんが支えて白い歯を光らせたる。


 姫野はごしごしと袖で目を拭って頷くと、もう一度マイクを握り直して、口を開く。泣いたせいでひどい声になってしまっているが、そんなこと気に掛けるやつはこの場にもういない。優しい突風を掴んだ紙飛行機はその飛距離を伸ばそうともう一度羽ばたく。


『えー……。みなさん本当にありがとうございます。じゃあ主張させていただきます。正直これからどうしていいかもわからない。自分自身のことだってよくわからない。けど、ひとつだけ、ひとつだけわかったことがあります。ここにはこんなあたしを受け入れてくれる人たちがいる。あたしはそんな、あったかいこの場所で、失った時間を、心を、満たしたい』


 崩れそうな泣き面だった姫野はしっかりと表情を取り戻し、いつのまにか足はしっかりとステージを掴んでいる。そして、大きく息を吸い込んで吐き出した。


『なのでっ! あたしは、あたし姫野凛は、この瞬間に空気姫を卒業します! 卒業宣言します! 捨てるんじゃなくて卒業なんです。過去を受け入れて、しっかりと区切りを持たせて新しいスタートを切ります! 図々しいことは承知しています。みなさんそんなあたしを受け入れてください! 今、あたしがここで失敗するわけにはいかないんです! こんなあたしを認めてくれた人、孤独から救い出してくれた人、背中を押してくれた人、その人達と明るい青春を取り戻すって約束したんです。あたしはその想いに報いたい。だから、だからどうかあたしに明るい青春を過ごすチャンスをください!!』


 言い切って姫野はとびっきりに笑った。


『それに……あたし不登校だったから中学の卒業式に出てないんです。だからこれはあたしなりの卒業式なんです』


 とぼけたように舌を出した姫野の微笑みは、あの微笑みだった。無垢むくで、天使のようで、思わず息を飲んでしまうような姫野のあの笑顔。


 一瞬、この場の全員がそれに意識を奪われ――――また息を吹き返す。


 うぉーとか、サイコーとか、好きだーとか、愛してるーとか。好き放題叫んでは、どこからも大きな拍手が巻き起こる。もちろん姫野コールも。


 その中心で姫野は笑いながら大泣きしていた。抑えきれない感情はわけのわからない表情と共に剥き出しになって、姫野はマイクを千鶴さんに預けるとステージから飛び降りる。そして講堂ホールの中央階段を飛ぶようにこちらに向かって駆けてくる。


『――さて、皆の衆。やっぱりおまえ達は最高だ!! ではそんな皆の素晴らしさと姫野一年生の卒業を祝して、モダンロックオーケストラ部の公演を始める! 曲はパッヘルベルのカノン。ロックバージョンだ!』


 黒いスーツをどこか着崩したモダロオケ部なるものがステージに上がってきて、演奏を始める。ロックオーケストラの名前にふさわしく、バイオリンとエレキギターの旋律せんりつが響き、次第に音が増していく。興奮冷めあらぬ観客はドラムの音に合わせながら手を挙げる。


 その熱気渦の中を歓迎されるように、喝采かっさいの拍手を受けながら、栗色の髪がつい目の前まで駆け上がってきて、


「あーちゃん、やったよ……!」


 有巣に抱きついた。姫野は有巣の肩に顔を沈める。


「あ、あーちゃん!?」


 有巣はつま先から震えると顔を真っ赤にして俺に向く。恥ずかしいのか嬉しいのか、むず痒いのか叫びたいのか、口をあわあわさせる有巣に俺は笑って肯いた。


「あーちゃん。ありがとう。本当にありがとう。それに、これは……成功でいいんだよね? あたし……頑張ったよね? やりきったよね?」


 嗚咽おえつを吐き出しながら、姫野は有巣を強く抱きしめる。


「あ、あぁ、成功だ! よく頑張った! だからちょっと貴様、離れろっ!!」

「やだっ!! 絶対離さない。本当にあーちゃん大好きっ! 愛してるっ!!」

「あ、あ、あ、愛してるっ!?」


 有巣の頭からぼしゅっと湯気が出た。ショートしたように有巣は固まると、静かに姫野を抱きしめ返す。


「……本当に、本当によく頑張った。わたしは凛が誇らしいよ」


 若干壊れた有巣は気持ち悪いくらいに素直になった。

 埋まっていた姫野の顔がそのまま横に向き、俺と目を合わせる。


「優馬くんも、ありがと。あたしを一人にしないって……すっごく、すっごく嬉しかった」

「ああ、まあな。そう約束したし」

「やっぱり、優馬くんは優男くんだね。優馬くんも本当に大好きだよ」

「…………あ、うん。それは――」

「なに照れてんだよ、優馬っ!!」

「がはっ!! って、新田! まだなにも言ってねぇだろうが!」


 新田に脇をど突かれて、首を絞め返す。姫野はそれをくすくすと見つめていた。

 すると突然、新田が神妙しんみょうな顔で有巣を指差した。


「新田、その手には乗らない――え?」


 視線を移したそこには有巣の瞳。そこから零れる一筋の滴を俺は見た。

 その瞳が俺とぶつかる。そして有巣は澄み切った笑顔で囁いた。


「良かった。わたしにもできたよ……――」


 瞬間、エレキギターが甲高く響き渡り、有巣の声は聞こえぬまま彼方へと消える。

 その音で目覚めたかのように有巣は目を真ん丸にすると、なんでもないと目を軽くこすった。なにか見てはいけないものを見た気がして、俺はステージに目を戻す。


 心臓を掴むような旋律が辺りを満たし、会場は熱気に踊る。その中で俺達は、姫野の卒業式に最高の形でエンディングを迎えることができた。

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