第51話-ユ涙姫と卒業式④

 そして、その時はきた。

 まだ千鶴さんが起こした熱気が色濃く残る空間に、そいつは薄氷はくひょうを踏むように恐る恐る、一歩ずつ入ってきた。


「おい、あれって空気姫だよな」

「あれが掲示板の子??」

「え? 今日も休んでるって聞いたんだけど」


 ざわざわと小声でのやり取りが聞こえ、その中にはもちろん侮蔑ぶべつするような声もある。そんな言葉にびくびくしながらステージの真ん中に立った姫野は遠目から見ても震えているのがわかった。


 無理もない。あちらから見れば人の山が、大量の目が、自分たった一人を焼き焦がすように見ている。視線の被爆値ひばくちがあるとするならば姫野はもう助からないだろう。そしてそこに送り込んだのは間違いなく俺だ。

 両手は気付かぬうちに祈りの構えを作っていた。


 そんな姫野の第一声。高校生活の一世一代を懸けた一言目。


『あ、あのっ! ――っ!』


 キーン……と金切かなきり音が鳴り、姫野は慌てて口をつぐむ。

 会場も呼応するかのように静まりかえり、姫野も思わず顔をせる。若干の沈黙。


 出だしとしては最悪だった。

 だが姫野は震えを抑えるように両手に力を込めると決意した顔でマイクスタンドを握る。


『ど、どうも、こんにちは……今、話題の一年七組、姫野凛です。知らない人はぜひ裏掲示板を見てください。別名、緩涙姫ゆるいひめ。または空気姫と書いております。なんと……な、生写真付きです!』


 それが姫野の最初の言葉となった。

 新田のいる右横から、ぷふっと息が漏れる。


「おい、新田!」


 俺が小声で牽制けんせいすると新田は今にも笑い出しそうな顔で、こちらに向き直る。


「だって、優馬……あれじゃあ――」


「――自虐ネタかよ!」


 遠いどこかで声がした。

 それに合わせて会場がどっと笑いに包まれる。


「なんだー、元気そうでよかったー!」といかにも身近な人間の声。

「実際見ると本当に可愛いー」と姫野を初めて見る先輩であろう声。

「キャラ作りなんて嘘なんだろー!」と少し期待と寂寥せきりょう感をはらませた男臭い声。


 姫野は様々な声にびくついていたが、自分の思っていた反応と違うのか、少し肩を和らげて、マイクへ向かおうとする。そんな時だった。


「――姫野さーん! 今日は例の掲示板に関する会見ですかー?」

 

 やっぱり、こういうやつがいる。


「どこだ、糞野郎……」


 有巣が嘲笑あざわらうような一言に毛を逆立てて、立ち上がろうとした瞬間、


『そう、そうです! そのなんというか――記者会見的なあれです!』


 姫野は声がする方を指差し叫んだ。

 またも会場がき、有巣は唖然としてそれを見ている。俺も驚いた。今、姫野はこの莫大な観客を相手に一人で戦っている。それは本人が言う作られた姫野の努力の賜物たまものかもしれない。しかし俺達の思う以上に姫野は力強く、そこに立っていた。


『あたしのために皆さんの貴重な時間をいただいてしまって、本当にしゅみませ――んだぁ……ぐすん』


 観客は姫野動作ひとつひとつに敏感に反応し、微笑み、次はどんなことを言うのだろうか。そんな期待のこもった視線を送る。


「風を、掴む力……」


 有巣が隣で呟いた。その通りかもしれない。今のところ、あの紙飛行機はなぜか落ちる気配を感じさせない。たぶん姫野本人にもなぜウケているかはわかってないだろうが、千鶴さんの言っていたことは的を得ていた。


 姫野はまぶたを閉じ、一息も二息も、ゆっくりと呼吸を整えると、力強く瞳を開ける。


『あの……では、気を取り直して、聞いてください。空気姫とあたし、姫野凛の主張です』


 急に落ち着きを纏った姫野に会場も呼応する。

 そして姫野はゆっくりと言葉を紡ぎだした。


 まずは掲示板の話。わからない人もいるだろうからと姫野は自ら説明した。そしてそれが正しいことも。高校デビューというわけではないけど、それまがいの事をして、それは姫野にとって、みんなに対する裏切りの行為だったかもしれないと謝った。


 次に過去の話。姫野凛がどういう人間だったか。今とは正反対だったとか、それが原因で裏切られて辛い想いをしたとか、一年間引きこもった挙句、劇的に変身したとか。しかし、姫野は島崎の名前を出すことはなかった。ただ一つ、原因は弱い自分にあったと、それだけはっきりと言い切った。


 赤裸々に担々と。でもどこか震えるような声で姫野は言葉を継ぐ。


 俺と有巣が、新田が、姫野のクラスメイトが、そしてここにいる全員が、姫野の話をひとつも聞き逃さないように黙って見守る。少し鼻にかかったような、幼い様相を顕著けんちょにした姫野の声は、静まり返ったこの空間に真水まみずのようにすんなりひたり通っていた。


『あたしは確かに皆さんを騙していたかもしれません。皆さんだけじゃない、自分自身も。あたしは自分をずっと嫌って、殺して、それでここまで来たんです。もう自分が誰だかも、何者なのかもわからないぐらいになった。それなのに……あたしの中ではやっぱり捨てきれなかった……。正しいと……思いたかった。こんな嘘だらけの自分にも、まだ正しいって思える部分があるんだって、そう思いたかった……』


 姫野は突然、喉を詰まらせると目を泳がせた。

 そして、堪えていた感情が目じりから流れる。スポットライトに当てられたそれは星屑ほしくずのように光って落ちる。


『だから、あんな掲示板に、間違いの象徴のように書かれて……やっぱり辛いんです。皆のあたしを見る視線が恐いんです……。今だって、もうここには味方はいないって、あたしは誰からも相手にされないんだって、こんなことしても無視されて余計馬鹿にされて、また一人ぼっちの空気みたいになるんじゃないかって、もうあたしに普通の青春は送れないんじゃないかって、本当は恐くて恐くて――』


 それはたぶん言葉にしてはいけなかったのかもしれない。

 口に出していくことで、姫野の心の底になんとか沈めていた恐怖や悲しみ、そして自信の無さが、くっきりとした形をとっていく。


 今、姫野の眼前にきっと敵はいない。けど、それは恐れとなって、姫野の全身を縛っているようだった。幾多いくたの瞳が姫野には獣の視線に見えるのかもしれない。


 姫野は口元を抑えて息苦しそうに呼吸を整える。マイク越しにひゅーひゅーという音が聞こえ、身体は自立するのが精一杯のように細いマイクスタンドにもたれかかった。


「な、なあ優馬。ひめっち、あのままじゃやばいんじゃないか?」


 新田に肩を揺すぶられ、俺はすがるような想いで姫野を見た。

 苦しそうに呼吸を繰り返し、それでも姫野は次の言葉を懸命に絞り出そうとしている。それをこの会場が騒然と不安半ばに静まりかえって見ている。


 やっぱり、この重圧に姫野は耐えられないんじゃないか。

 俺の頭にはなぜか空中で潰れていく紙飛行機がよぎった。


 助けてやれないのか。たった一人で明るいスポットライトの下で、広いステージの中心で姫野が苦しんでいる。それにそう差し向けたのは俺だ。なのに俺は……。


「おい、優馬。優馬ならこんな時。友になんて言葉をかけてやる?」


 気づくと有巣の顔が、吐く息をもろに感じるところにある。

 そいつは射るように俺に答えを求めた。


「なんてって……そりゃあ……頑張れって、祈るしかないだろ」

「頑張れ……で、いいんだな?」

「そうだけど、って有巣、おまえまさか!?」

「当然だ!」


 言うと有巣は風を巻き上げる早さで立ち上がった。


「――優馬やばいぞ、ひめっちが!!」


 右から新田に肩を揺さぶられ、慌ててステージに目を戻す。

 姫野は浅い呼吸のまま目を瞑り、前のめりにふんわりと傾いた。

 同時に舞台袖からは千鶴さんが血相けっそうを変えて一歩踏み出す。


 会場は倒れかける姫野に鳴らない声を出して息を呑み、それとは対象的に有巣が激しく息を吸う音が聞こえ、


「りぃぃぃん! 頑張れっっっっ!!!!!!!!」

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