第36話-空気姫と高校デビュー⑤

 俺と姫野は驚いて振り返る。


「あたしがあたしでいられなくなる? 笑わせるな。では今の貴様はなんなんだ」


 視線の先にあるのは木陰に立つ華奢きゃしゃな姿。

 わずかな木漏れ日の中で白い肌は一層輝き、漆のような髪は力強くなびく。


「本物を捨て、偽物にもなりきれない。ならば、そこにいる姫野凛の器を被った人間は誰だと聞いているのだ」


 どんな清水きよみずでも冷たすぎる水は痛みをもたらす。今聞こえる声はそれに近かった。

 あまりにも冷たくて、でも正しくて、だからこそ、辛辣しんらつなんだ。


「有巣……。いつからそこにいたんだよ」

「そこの泣き虫女が不登校になった理由を話していた頃からだ」

「ほぼ最初じゃねえか」

「当然だ。わたしの部屋の真後ろだからな。窓を開けたら普通に聞こえてきた」


 ここは研究棟の裏側。場所的には部室の奥、有巣の自室の真横にあたるのだった。


「それより、授業はどうしたんだよ」

「ふん。その言葉、そのまま貴様等に返してやる」


 有巣はなびかせていた髪を手櫛でまとめると俺達の前で仁王立におうだちをする。

 姫野と有巣の視線がぶつかり、しばしにらみ合う。

 先に口火を切ったのは、やはり有巣だった。


「裏切られる辛さ? 否定される苦痛? それは全て、貴様が自分自身にしたことだろ!」


 姫野は目を見開くと薄い唇をぎゅっとむ。


「偽物にもなりきれないって……どういうこと? あたしは完璧に別の自分を」

「作り上げたようだな。しかし――」


 有巣は自分の携帯電話で、例の掲示板を映し出す。


「嘘は明るみになれば崩れる。虚構きょこうは一瞬で無くなるものだ」


 姫野から言葉は出ない。喉を膨らませては、ぐっと飲み込む。

 有巣はそれをと言った。それはきっと姫野が自分に対してついた嘘。正しいと思いながらも否定し、打ち消し、新しく塗り固めた姫野の大罪。


「じゃあ、あたしはどうしたらいいの……」


 姫野は両目をおおってあえぐように言う。


「あたし可愛くなったよ。綺麗になったよ。でも、これじゃあ意味ないじゃん! あたしはまた嘘つきになった。こんなのすぐみんなに知れ渡って、居場所なんか簡単に無くなっちゃう。あたし、間違えてなんかなかった。なのに、なのに……」


 風が木々を揺らす音のみの空間に姫野の嗚咽おえつむなしく響く。

 その中でも有巣はただ憮然ぶぜんに、いつも通りに、深い溜め息をついた。


「いいや、貴様は間違った。自分に正しくあろうとしなかったんだ」


 姫野を見下ろす有巣の瞳はなんの躊躇ためらいも持っていない。ただ真っ直ぐに、真実だ。


「他人になんと言われようが、自分が正しければ、そこに倫理りんりや筋が通っていれば、理不尽でなければ、それは正義だ! いじめを止めようとした貴様は正しかった。それはわたしが保証してやる」


 姫野が真っ赤な瞳を上に向ける。


「しかし、貴様は間違った。周りに押し負け、自分の正しさから逃げたんだ。なんと非難を浴びようが自分の信じた正しさを証明すればよかったのだ。今の貴様は空っぽだ。信念も、強さも、人間らしさもなにもない。そんなやつにもともと魅力なんかない」


 だが、姫野の視線は有巣と合うことなく横に逸れた。そして、ぼそりと呟く。


「有巣さんには……わからないよ」

「なんだと?」


 有巣の右眉がぴくりと上がり、目は細まる。


「もう一度言ってみろ」


 有巣は姫野の下顎したあごを掴むと、ぐいと持ち上げ、固定する。

 それは冷徹れいてつだが獰猛どうもうな肉食獣の目。

 逃げることのできない姫野は必死に目を逸らそうとするが、諦めて真っ直ぐ見つめると、


「どうせ、有巣さんにはあたしの気持ちなんかわからないって言ったの」


 有巣の手を振り払って立ち上がった。

 有巣と姫野が真正面でにらみ合う。


「どういうことだ。はっきり言ってみろ!」

「ちょっと、二人とも、やめろって――」

「あたしは有巣さんみたいに強くない。だからこうやって必死に頑張ってるんじゃん。有巣さんみたいに一人でも自分を貫いて生きてる人が羨ましいよ。すごいなって思うよ。あたしだって、そうなれればって何度も思ったよ。けど、あたしには無理なの。強い有巣さんには、そんなあたしの苦しみがわかるわけないんだ!!」


 俺が止めようとするのもままならず姫野は叫んだ。心の底からはっきりと。それは苦々しく俺と有巣を貫いていく。


「強い有巣さんは、弱くて傷つけられた人の気持ちなんか考えたことないんでしょ。今まで傷ついたことだって一度もないんでしょ。それなのに……、あたしに……、理想ばっかり押し付けないでよ!」


 血走った目で訴えた姫野のひたいが有巣のひたいをど突く。

 その鈍い衝撃音とともに姫野は吠えた。


「あたしは、有巣さんみたいに孤独でもへっちゃらな性格なんかしていない!」


 言ってしまった。もう歯止めが利かなかったのだろう。


「姫野、やめろっ! 有巣だって、そんなの平気なわけない!」


 俺は姫野を有巣から引きはがして訴える。


『別にわたしだって、好んで一人でいるわけじゃない……』


 有巣は言っていた。そうだ。有巣だって大丈夫なわけがないんだ。

 振り向き見た有巣の額はぶつかった反動で赤くなり、顔は殴られたように歪んでいた。その形相は鬼のようで、冷酷で。そして寂しそうに有巣はうつむいた。


「そうだな。わたしは貴様ほど弱くない。それで一年間なにもできなくなるような弱い精神は持ち合わせていない……」


 有巣は、そう言った。

 すると突然、今度は姫野の嗚咽が止まり、ただ固まって目を見開く。


「どこで……それを?」


 姫野の唇が色を失って震える。


「今、貴様の話を聞いた上での憶測おくそくだ。だが、その様子だと正解なのだな」


 有巣は視線をせたまま、静かに言う。

 姫野はそれを聞くと自分の身体をぎゅっと抱いた。


「そっか。やっぱりあたしってバカだな……。一番、隠しておきたかったのに」


 俺はもうどうすればいいかわからなかった。二人にしかわからない会話が緊迫した空気をそれ以上によどませている。


「それに島崎にも会ってきた。たぶん、このままだとそれも公表する気でいるだろう」


 姫野はうつむくと大きく、ゆっくり息を吐く。


「悔しいな……。やっぱりあたしは何も変わってなんかいなかったみたい」

「おい姫野、どうしたんだよ。俺いったいなんの話してるんだか……」


 ただ困惑するしかない俺に姫野は優しく微笑んでくれた。それは間違いなく正真正銘、本物の姫野の笑顔だったと思う。


「優馬くん、今日は話聞いてくれてありがとね。それにこれまでもかまってくれて、本当にありがとう。あと、ごめんね、色々嘘ついて……ごめんね」


 そう言って、姫野は駆け出した。その背中を俺は追えなかった。それは最後の言葉があまりにも、さよならの言葉だった気がしたから。

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