第37話-空気姫と高校デビュー⑥

 一限の終わりを告げる鐘が鳴る。次の授業までは五分しかない。

 しかし、俺と有巣は教室に帰ろうとしなかった。

 さっきまで姫野が座っていた隣には今は有巣がいて、ひどく沈み込んでいる。


「二時間目、行かなくていいのか?」


 返事がない。


「そうか。じゃあ俺も行くのやめよ」

「貴様は行けばいいだろ」

「なんだ、聞こえてるんじゃねえか。ただ、今は呑気に授業受ける気分じゃないんだ」

「……わたしもだ」


 有巣は唇をんで深くうなる。

 そして「あぁぁー!」と叫ぶとぐしゃぐしゃっと髪をき乱した。


「また、やってしまった!!」


 昨日と変わらないこの展開に俺もため息を溢す。いったい今日はいくつ角砂糖が無くなるのだろう。


「でも有巣はすごいよな。言いたいことはっきり言えてさ」

「わたしだって、言い過ぎたと思う。けど、それでも自分にも凛にも正直にいたいんだ。友達だから尚更なおさらだ。理不尽なのは自分がするのも、されるのも嫌だ」


 有巣は嘘をつかない。思っていることも隠さない。それゆえに損害が大きい。


「傷つけられた人間の気持ちなんかわからない……か。確かにその通りかもしれないな」


 有巣は体育座りのようにひざを抱え込む。


「わたしも朝、教室に入ったらクラスの連中が以前と同じように携帯片手にヒソヒソと話していたから問い詰めたんだ。最初はまたわたしの事だと思ったのだが――」


 だが、それは姫野のことだった。有巣によると、それを見た有巣は内容とやり口の汚さに憤慨ふんがいし、授業が始まりつつある島崎の教室に乱入。島崎の胸倉むなぐらを掴んだあたりで教員に追い出されたらしい。


 それで一度落ち着こうと自室に戻ったところ、俺たちの会話が聞こえてきたそうだ。


「わたしは怒りに任せて島崎のもとへ向かった。だが優馬は凛を心配して、一目散いちもくさんに凛を見つけ出したみたいだな。そこがわたしの人を想う気持ちが欠けているという何よりの証拠かもしれない」

「それとこれとは別だと思うけど」

「気休めはいらない」


 口調は強いが、有巣の眉はしゅんと下がっている。


「加えて、孤独でもへっちゃらな性格だそうだ。やっぱりわたしって、そう見えるんだな」


 有巣は今にも折れそうな花のようだった。

 痛みを和らげるように額をさすっている。でもそれは物理的な痛みではないのだろう。


「友情って難しいな。それにもう凛はわたしと口も利いてくれないかもしれないし……」


 有巣の鼻がぐすんと鳴る。ついでにそでは瞳の位置でごしごしと動いていた。


 まさか……な。あの鬼畜嬢が……。

 いや、有巣だって普通の女子高生だ。傷付いて涙が出ることくらいある。

 俺は横を向くことができなかった。けど、


「きっと……大丈夫だ」


 声は勝手に出た。


「根拠なんかないだろ?」

「ああ。でも信じろ」

「ばかたれ。ばか武者。なんて理不尽なんだ」


 有巣は潤んだ声で呆れたようにやりとりを続けると、


「今日だけは信じてやる。もし嘘だったら許さない。犬のウ○コ食わす」


 と、普段なら絶対言わないような大ボケを本気でかましてくれた。


 俺は有巣の鼻をすする音が聞こえなくなってから、落ち着いて話を戻す。


「なあ、さっき姫野と最後に何を話してたんだ? それに一年間なにもって……」


 有巣がそう言った瞬間に姫野のなにかが崩れ、全てを諦めた。そんな顔をした気がした。

 有巣はまだ赤い目で俺を一瞥いちべつすると、「優馬は違和感がなかったのか」とため息をつく。


「まず、なぜあんなに島崎は姫野のことに詳しいと思う」

「それは、あの二人が同じ中学だったからで」

「それはそうだ。しかし、姫野が不登校になったのは中学三年の時だ。だが島崎は当時の写真も持っていたし、詳しい出来事まで知っているようだった」

「それがなに――あっ!」


 俺は気が付いた。普通ならそれはあり得ないことだ。姫野がいじめを阻止し、自分がいじめの対象となって、不登校になった時、島崎はもう同じ中学にはいないはずなのだ。だって、あいつは一つ年上だから。もう卒業しているはずなのだ。


「じゃあ、まさか……」

「ようやく気が付いたか。決定的だったのは掲示板の『空白のとき』という言葉だ。最初は『とき』を変換し違えたのかと思った。しかし、普通そんな間違えはしない。あれは意図的だ。文芸部に所属しているあの男なら、そういう言い回しをしても不思議ではないからな」


 有巣はまだ困惑する俺に、説明を加える。


「季はそれ単体でも『とき』と読めるが、その意味合いは大きく異なる」

「その意味って……」

「年。だ」


 季は英語訳だとシーズンだ。スポーツ好きなら、無論、サッカー好きな俺にはそれがよくわかる。一シーズンは基本的に一年だ。


「――空白の一年」


 確信した今でも信じ難かった。そんなのわかるわけがない。

 姫野の特徴は馬鹿で天然で、そして……その見た目からくる幼さだ。

 俺と有巣と姫野が三人並んだとして、一番幼く見えるのは間違いなく姫野だろう。

 その姫野が、


「一つ……年上?」

「ああ。間違いない。今までの話しから想像するに、中学を卒業してから一年間、凛は引きこもっていたのだろう。そして今年、晴れて高校入学に踏み出したんだ。島崎は当時のクラスメイトとか姫野をいじめていた一人と考えられる。あの様子だと主犯格かもしれん」


 すべて合点がいく。姫野がなぜ同じ中学の卒業生が来ないような家から遠い高校を選んで入学したか。島崎を恐れたか。一番隠しておきたいと言ったのか。


 別にそれは悪いことではない。

 けど、やはりそれは軽蔑けいべつの対象だとも言える。

 だって、現に俺が今、その事実に大きく動揺したからだ。


 息を呑む。それはきっと、もっと遠い将来。例えば大学とか、社会人になってからとかなら気にもかけない問題なのかもしれない。

 けれど若干、十五歳の俺達にとって、それは簡単に無視できない問題だった。


「マジかよ……。そりゃあ隠したくなるよな」


 俺は頭を抱える。有巣も横で物憂ものうげな顔をしていた。


「凛はなにも悪くない。それはわかっている。たぶんいつかは明るみになる話だったとも思う。ただ、タイミングが良くなかった」


 そうだ。姫野はなにも悪くない。そもそも良い悪い話なんかじゃない。姫野は一年間も苦しみ抜いたんだ。そして並々ならぬ想いで新しい人生を切り拓いた。


 そんな姫野の青春が、あいつの求める高校生活が、こんな所で終わっていいわけがない。

 失っていいわけがない。


 よぎるのは、あの日サッカーボールを捨てた透明なビニール袋。そしてその後、顔を洗って洗面台の鏡に映った自分。あんな顔を俺はもう見たくないし、させたくない。


 俺自身にも確信したことが一つあった。

 それがどんな意味を持つのか。結果として何をもたらすかはわからない。けど、俺のブレーキは折れていた。これじゃあもう止めることはできない。


 立ち上がって有巣を見る。


「おい有巣。俺たちの馬鹿で天然な友達の輝かしい青春を取り戻しにいくぞ」


 有巣はきょとんとした顔をしたが、すぐに不敵に笑って立ち上がる。


「当然だ。あとゴミクズ野郎にも一泡吹かせてやらないと気が済まん。わたし達CAN部に楯突たてついたことを卒業まで、いや、一生後悔させてやる!」


 この場所には滅多に日が届かない。周りは薄暗い緑がなびくばかりだ。けど少し歩み進めれば、日の光はすぐ隣に差し込むかもしれない。ならば踏み出すしかないだろう。

 だから俺と有巣は踏み出すことにした。


「わたしは、そしてわたしの大切な人には、もう絶対理不尽な想いはさせない」


 これがCAN部、最初の案件。その日の夕焼けはやたらと寂しそうで、けれども眩しかった。

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