第13話-彩眼竜と紅の色 ②

「こ……殺さないでください」

「それはてめえの返事次第だ」


 わずかな沈黙の後。精いっぱい絞り出した第一声の情けなさに悲しくなる。

 絹布を握っていた俺の手は、あっけなく真上で降参の意思を示した。


「だ、伊達先輩……ですよね?」

「質問してんのはこっちだ。てめえが先に答えろ」


 窓ガラスに映る真紅の淀みを見ると、伊達冬華であることには間違いない。まさか自分が先に来てしまっただけだったとは。


 思わぬ展開に困惑するが、こうなった以上、誤魔化すことはできない。

 俺はゆっくりと息を吸い。できるだけ丁寧な口調で説明することにした。


「先ほどの件で……、姫野から謝罪の言葉がありまして……。本人が動けないようなので、変わりに伝えに来たのですが」


 動けないのはあんたのせいだけどな。そう言いかけた言葉は首筋に突き刺さる恐怖で出てこなかった。


 謝罪。その言葉に驚いたのか、窓ガラス越しに細く睨みつけていた伊達の赤い目は少しだけ開いて、また猛禽類もうきんるいのようにきつく細める。


「それで……。謝りに来た事と、この絵を見ているのには、なにか理由があんのか?」

「いっ、いえ! 因果いんがはまったくございませんが、ただこの絵が綺麗だったためで……」

「綺麗? けっ、適当なこと言いやがって。わかりもしねえくせに」


 吐き捨てるようにそれだけ言うと、伊達は首に突き刺していた筆を離し、机に放り投げる。それを確認して俺は伊達の方に振り返った。


 改めて正面で向き合った伊達は、あのパワーが想像できないほどに小柄で線が細く、斜陽が照らす色白な横顔は、いかにも女子らしい柔らかそうな頬をしている。


 白銀の毛先は少しハネ癖がついていて、そこから黒いアンダーシャツを被せた慎ましい胸元へ、熱を持った肌色が艶やかに続いていた。


 ただ、その瞳だけは、それらすべてを打ち消すほど歪に光り、結局俺もそこに目が行ってしまうのだった。

 その眼差しと目が合い、慌てて逸らす。しかし、逸らすことさえも逆鱗げきりんに触れるような気がして、もう一度合わせると、伊達の瞳はずっと静かに俺を睨んだままだった。


 気まずいしじまが身体を縛りつけ、俺は言い訳よろしく言葉を紡ぐ。


「あの……、勝手に見てすみませんでした。でも、なんでこの絵を見るのがそんな罪なのでしょうか……」

「それがあたしの絵だからだ。勝手に見られると不愉快なんだよ」

「そ、それは申し訳ございま――えっ! これ伊達先輩が描いたんですか!?」

「なんだ、文句でもあんのか」

「いや……。あの、意外だったので――ぐふぅ!」


 どこが癪に障ったのだろう。言葉を発したのと同時に、伊達の拳が的確に俺のみぞおちを捉えた。


「だから見た目で判断すると痛い思いするって言っただろ」

「ず、ずいまぜんでじた……」


 激痛のあまり、立ったまま悶える俺に、伊達はどこか呆れたようにため息をこぼした。


「おい、てめえらはお人好しのアホなのか?」


 いきなりなんですか? 言葉にならずに疑問の眼差しを送ると、伊達はうずくまる俺に椅子を蹴り渡し、座れと顎で指示する。俺は痛みに耐えきれず、渡された四角い木製椅子に腰を落とした。


「呆れただけだ。あたしに殴られて、謝りに来たやつなんか初めてだったからな」


 伊達は目を伏せて言うと、慣れた手つきでパレットに絵具を落とし、筆洗いにつけていた筆でのばし始める。そして俺が殴られた衝撃で落とした絹糸を軽く払って机に置くと、さきほどの絵の前に立った。


 夕時の橙が、外を覆う木の葉からこぼれて伊達を包む。絵具を軽くにじませた筆を紙に走らせると、静かな教室にすーっと、涼やかな音が染み入った。


「いつもは報復だ、仕返しだなんて、喧嘩ふっかけてくるやつばっかりだったからな。どうも不思議な気分だ。そこまでムカついてねえ。だから落ち着いたら、あたしの気が変わる前に帰ることだな。んで、謝ってきたあいつには悪かったなと伝えてくれ」


 伊達はそう言って、横目で俺を一瞥すると、再びキャンバスを真剣に見つめる。

 映える絵具に充てられた姿は、どこかイメージしていた彩眼竜とは異なるものだった。


 なんだろう……。この人もこんな顔するんだな、というのが率直な感想だ。


 校舎裏で暴れていた姿、有巣と言い争った険しさ、姫野を殴った瞬間の怒り。そのどれとも違う。ただ静かで、それこそ一輪の百合のような佇まい。


 見た目で判断すると痛い目に合う。伊達はそう言った。

 確かに俺は新田から聞いた噂話や、その瞬間の一面でしか伊達を判断していない。


 有巣が言っていたことや、姫野の伊達を助けたいという気持ちを考えると、このたった一人の先輩について、もっと知らなくていけないことがあるのではないか。


 そんな気がして、やっと痛みが引いた俺は言葉を重ねた。


「あの……伊達先輩」

「帰れって言ったはずだぞ」

「そうですけど、とりあえず確認しておきたくて……。部活、来ますよね?」

「二度と来ないでほしいってか? まあそうだろうな」

「いえ、決してそうではなくて……。東雲先生もああ言ってましたし、せめて一度くらい一緒に依頼を解決できればと思うのですが」


 キャンバスから目を離さず、ぶっきらぼうに返事する横顔に問うと、伊達は考えるように細長く息を吐き出した。


「……まあな。晶と約束しちまったし、行くつもりではいる。行ってどうするかはあたしの勝手だけどな」

「勝手って……。僕らも各々自由にしてるんでいいですけど。ただ今日みたいな暴力沙汰は勘弁してくださいよ?」

「それもてめーら次第だ」

「わかりました。じゃあせめて伊達先輩もすぐに手を出すのだけはやめてください」


 今のうちに釘は刺しておかないと今後が心配だ。これからのCAN部のために少し強気で言い返すと、伊達もふん、と鼻を鳴らした。きっと最低限の了承なのだろう。


 扱いにくい人ではあるけれど、まったく話が通用しないわけでもなさそうだ。そこは有巣と似ているような気がしなくもない。


 だからこそ東雲も、伊達をCAN部に連れてくるに至ったのだろう。というか、


「そういえば、東雲先生の言うことは聞くんですね。ああ見えて、結構仲良しなんですか」


 特にわけもなく、ぽろりと尋ねると、伊達は描くために繊細に保っていた筆先をぐしゃりと紙に押し当てて、慌てたようにこちらに目をむけた。


「あ、あいつはっ……! あたしに絵を教えてくれたからで、そんで今も教えてくれてるからだ! それ以上でも以下でもねえ! いつもいつも余計なことしてくれて鬱陶しいが、お利口にしてねえとレッスンできなくなるからな」


 わざとらしいくらいの反応速度で、伊達は顔を目の色のように赤く染める。


 ははーん、わかっちゃったぞ。こんなヤンキー少女にも乙女心が――そう顔に出てしまっていたのかもしれない。俺の余裕に気づいたのか、伊達が阿修羅あしゅらのごとく睨みつけてくる。ごめんなさい、ごめんなさい、ほんっとすみませんでした。


 苦笑いで降参のポーズをとると、思いが通じたらしく、伊達は絵に向き直った。

 そして小さく溢す。


「それに……」


 伊達は言いかけて、一度口を結んだあと、柔らかく開いた。


「他の誰でもねえ、あたしのためにやってくれてるからだ。ちょっとくらい素直になってやりてえとは思うよ。……てめえには関係のない話だけどな」


 一呼吸で言い終えて、照れ隠すように俺を一瞥する。そして「もういいかげん帰れ」と呟いた。


 素直になってやりたい。その言葉があまりにも綺麗に浸透した。ほんのりと染まった頬を冷やすように、伊達はアンダーシャツの胸元を引っ張って、風を入れている。


 筆が紙をなぞる音だけが、ゆっくりと時間の流れを感じさせて、俺は伊達の言う通り立ち上がることにした。


 この人はただ暴力的で悪い人というわけではない。それが確信できたからだ。

 そして、きっとその目のことも素直になれないだけで、東雲の言う通り、誤解されていて、姫野の言う通り救われなければいけない人物で、有巣の言う通り――。


「なんで伊達先輩は、その目がじゃなくて、本物・・だって言わないんですか?」


 伊達冬華の目の話題に触れると、必ずと言っていいほど、ただでは済まない。

 それを承知の上で、俺は真っすぐに伊達の真紅の左目を見つめて尋ねた。


 殴られてもいいと思った。ただ、その分、俺はこれまで伊達に目のことを言ってきたやつらとは違うという自負も持っていた。


「――ッ!!」


 案の定、瞬きする間もなく伊達は、風を切る速さで俺の目の前に踏み込み、俺の喉めがけて一閃を放つ。俺は反射的に目をつむり、そして、


「……ん?」


 なんの衝撃も与えられていないことに気づき、うっすらと瞼を開ける。


 すると伊達の拳が喉元で止まり、その瞳の色がこぼれたのか、真っ赤になった伊達が、いつもの冷めた目とは対照的に驚きを顕わに大きく見開いていた。


「おまえ……。晶から聞いたのか? あいつ……、あいかわらず余計なことしか――」

「いっ、いいえ! 気づいたんです。東雲先生からはなにも……」

「なっ!? 気づいた……? そんなこと……」

「あの……はい。俺も驚いたんですけど、有巣が気づいたんです。先輩がコンタクトつけてないことに」


 伊達の予想外の反応に、こちらまで動揺して、正直に答える。


 ん? 待てよ。確かに東雲はそんな大事なことを、なぜ俺たちに言わなかったのだろう。

 だが、そんなことを気にする間もなく、伊達が訊ねてくる。


「有巣? あの、口の悪いクソガキが?」

「口が悪いのはお互い様では……」

「あ? なんだと?」


 今度こそ殴られるだろうか。身構えたが、伊達は持ったままだった筆を置きに下がると、窓際にもたれかかって、目をつむる。


 そして、うっすらと瞼を持ち上げ、俺とじっと目線を合わせた。


「ちゃんと、わかるからだよ。真実が」

「……え?」


 なに言ってんだこの人。

 そんな目を察されたのか、伊達は、わざとらしく咳払いして言い直した。


「だから、てめえがなんでコンタクトじゃないって言わないのかって聞いてきたから、その答えだ!」

「あ、ああ……。そうですか」

「そうだよ」

「すみません……。言ってる意味がまったくわからないです!」

「……っ! 馬鹿にしてんのか! ぶっとばすぞ!」

「ちょ、ちょっと待っ! 落ちついてください! もう少し詳しく聞きたいなと思って!」


 全力で阿保面になり、目をきらきらさせながら聞く姿勢を取る。すると伊達も嫌々ながらも大きなため息を吐いて、語ってくれた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る