第12話-彩眼竜と紅の色 ①

 音楽室や工芸室などが並ぶ、実習棟の一階。建物周りに茂る雑木林のせいで、ひときわ薄暗い廊下の一番奥が美術準備室だった。


 駆け足できたからか、もしくはこれから待ち受ける試練のせいだろうか。俺は高鳴る心臓を落ち着かせながら、軽くノックする。


「失礼……します」


 おそるおそる扉を開いて足を踏み入れた。


 整理されていないプリントの束や、毛先が乾いて枯木のような筆が散乱し、絵の具と藁半紙が混じった独特の香りが鼻を刺激する。


 日当たりの悪い窓際に並んだ石膏像がじろりと睨みつけているようで、どこか物怖じしていまいそうな空気が漂っていた。


 それにしても、


「いない……よな?」


 東雲のやつ、適当なこと言いやがって。


 ひとりごちて、ため息を吐く。幸か不幸か、伊達との接触から一時的に脱却できたことに安堵し、改めて教室を見渡した。


「久々だな、美術室って」


 高校入学を機に選択授業から美術を外したせいか、この異質な空間は、どこか懐かしい。重なっている紙束をぱらぱらとめくると、課題と思われる版画が学生らしい粗さで描かれていた。


 とはいえ、ここで暇をしている余裕もない。手ぶらで帰ると姫野もむくわれないだろう。


 気が進まないながら版画集を閉じ、他を探そうと美術準備室から出ようとしたその時。木々の間を抜け出した光が、封印を解くかのように、小さな部屋に一閃を注ぐ。


 そして、窓際にある一つの大きなキャンバスを照らした。

 中の絵を守るためか、キャンバスを包み込むように絹布が上にかけられ、純白のウェディングベールのように日を受けて輝く。


 それがあまりにも神秘的だったからだろうか。俺は引き寄せられるように近寄り、無意識のままにベールを外す。


 そして、思わず息を呑んだ。


「すげえ……」


 3Dを見ているような鮮やかで透き通った街の風景画。明け方だろうか、薄い青を基調とした水彩のデザインが、木漏れ日を浴びて輝く。


 手を伸ばしたら掴めるのではないかと思うほど美しいあさもやには、特殊な技法が施されているのだろう。まるで異世界の空気が飛び出してきそうだ。


「これはきっと……」


 東雲の絵に違いない。

 先日、東雲が顧問と知った直後に、有巣が作品集を見せてくれた。芸術に疎い俺でもわかるほどに、その美しさにはかなり驚かされたのだ。


 分類でいうと、きっとラッセンに近いだろう。鮮やかで繊細な絵だ。

 ちなみに俺もピカソより普通にラッセンが好き……なんてことは、どうでもいいか。


 やるべきことを思い出し、はがしたベールを戻そうと真っ白な絹糸を両手に広げると、背中からあたる斜陽がキャンバスに俺の影を映す。そして、


「――ん?」


 その影に違和感を覚えた。シルクを持っている俺の腕以外に、もう一つの何かが、勢いよく俺の背中から伸びて、首筋一直線に突き立てられた。そして、それを確認しようと振り向こうとした刹那。


 針のような感覚がチクりと走り、思わず身体が硬直する。

 顔を動かさないまま目線を下げると、絵具を洗い流さなかったせいか、カピカピに固まった筆の先端が首筋に刺さっていた。


「なっ……!?」


 声を発そうとすると筆先がさらに深く刺さり、瞬時に冷や汗が額に滲む。


「――動くな。てめえ、何しに来やがった」


 首筋の凶器よりもはるかに鋭利で低い声。

 キャンバスの向こうの窓に反射する赤い瞳。

 ここが世紀末だったら、俺は数秒後に爆発するのだろうか。


 おまえはもう死んでいる。絵の空に死兆星が輝いた。

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