第41話-信念と正さとネバー・ギブ・アップ④

「リンの母君の手料理は実に美味だった! 思わず食べ過ぎてしまったよ!」


 ソファーにどっぷりと腰かけた千鶴さんの笑い声が部室に響く。

 姫野が朝目覚めたら、なぜかリビングに千鶴さんがいて、母が気前よく手料理を振る舞っていたそうだ。そして戸惑いつつも朝食を共にし、一緒にシャワーを浴び、バストを計られ、髪を乾かしてもらい、バイクに乗せられてここまで来たらしい。


 千鶴さんの任せろとはこういうことだった。というか飯食った後なにしてんだよ。


「ちなみにリンの乳首は綺麗なピン――ふごっ!」


 有巣が素早く千鶴さんの口をふさぐ。姫野は首筋まで真っ赤に染めて両手で顔をおおった。

 俺は……後から来た二人分の紅茶を注ぐ音を雑にしてごまかした。

 危ない。あと一歩で俺の脳内は桃色パラダイスだった。


 紅茶をれ終わって、各々席に着く。千鶴さんと姫野が上座のソファー。千鶴さんの正面、テーブルを挟んで下座のソファーには有巣。有巣の右隣に俺が座った。


「姉様。これ以上ふざけるなら帰ってください」

「おい、それはあまりにも冷たいじゃないか! なあ、リン!」


 ふいに話をふられた姫野は有巣と目が合うと、しゅんとうつむく。

 こうして揃うのは火曜日のあれっきりだった。お互いに気まずさが残っているのが目に見えてわかる。


 露骨ろこつに顔をらした姫野に、有巣の右眉がぴくりと上がった。


「貴様、なぜ連絡の一つもよこさなかった。木曜日の部活も無断欠席だ」


 姫野は拳を握って押し黙る。

 有巣はそんな姫野を見て、あらくため息をついたが、思い直したように顔をキッと引きしめると強い口調で言う。


「それで風邪はもう大丈夫なのか? あんなことの後だからな。これでも一応、心配していたんだ。苦しかっただろう?」


 姫野は顔をゆっくり上げると声にならない声をこぼし、茫然ぼうぜんとする。

 俺も驚いた。姫野の風邪なんて仮病のための嘘に決まっているからだ。


「それに貴様から言われた言葉を自分でも考え直してみたんだ。確かにわたしは貴様の気持ちをみ取ろうとしていなかった。深く傷つけたと思う。すまなかった」


 有巣は少し気まずそうに口を歪めたが、それでもまっすぐ姫野を見つめて、前とは比べものにならないくらいはっきりと謝辞しゃじを示した。


 その言葉に誰もが耳を疑う。

 俺と姫野は当然、有巣がこんなに真剣に謝る姿を見たことがなかったし、千鶴さんにいたっては目を大きく見開いて口をぱくぱくさせている。


 そんな俺たちの気配を察知して有巣はわずかに不思議そうな顔をしたが、「そういえば」と芝居がかった言い方でデスクから小さな箱を取ると姫野に手渡す。


「評判の漢方薬だ。わたしも風邪の時はそれを飲むのだが、なかなか効き目がよくてな。買ってきたんだ」

「え……、わざわざ? あたしのために……?」


 姫野が震える声で尋ねると、有巣は頬を赤らめて、髪に指を滑らせる。


「ま、まあな。なんというか……びの品ってやつだ。それに貴様がいないとなんの話もできないからな。早く戻ってこいってことで、だからこれはCAN部のためで、貴様一人のためってわけでは――」

「うそ……。なんで…………」


 姫野の頬を涙が一筋滑った。


「って、なんだ!? 漢方は苦手か? 確かに苦いが泣くほど嫌だったのか……。じゃあオブラートでも買おう!? それならなんとかなるだろ!」


 有巣は不安そうに姫野を見つめては、あたふたと打開策を考える。

 そんな有巣から目を放さずに姫野は固まった。その涙の意味を理解していないのは、きっと有巣だけだろう。千鶴さんは二人を愛おしそうに眺め、俺も思わず笑う。

 そうだ。有巣はこういうやつだ。芯は仲間想いの優しいやつなんだ。


 姫野からは無数の涙が流れる。流れては落ちる。


「ごめんね。あたしだって無神経なこと言ったのに。やっぱりあたしは大バカだ……。有巣さんは、ちゃんとあたしのこと考えてくれてて……うぅ……なのに、あたしは……」


 姫野の泣き声が響く。有巣はぼたぼたと泣き崩れる姫野に戸惑い、俺に視線を移した。


「わたしはまた、なにかまずいことをしたか?」

「いいや。それをしたのは姫野だ」


 姫野からぐすっと鼻をすする音がする。


「ねえ、有巣さん。なんであたしにそんな優しくしてくれるの? あたし、この間だって、有巣さんにひどいこと言ったじゃん!」

「それはお互い様だろう」


 有巣はきっぱり切り捨てた。


「それにあたし……一つ年上なんだよ? それも黙ってたし、あげくの果てにキャラ作りでずっとだましてたんだよ?」

「だから、なんだ?」


 有巣は少し不安な顔をしたが、とても単調に質問し返す。


「だからなにって……そんなおかしい人間なんだよ? みんなあたしのことなんか、もう無視してる。なのに有巣さんはなんとも思わないの?」

「ははっ! それは愚問ぐもんだな」


 ぐずる姫野の頭をぽんと叩いて、千鶴さんが大らかに笑った。


「リン、レナはそんなこと気にも留めないぞ。いいか、よく聞いてるんだ」


 言うと千鶴さんは有巣に向って、人差し指をぴんと立てた。


「一年間浪人してはいけない法律は?」

「ない」

「キャラ作りは?」

「個性です。まあ今回においては努力とも見て取れますね。逆に自分を上手くコントールできる点については尊敬に値します。わたしには無理なので」

「では、今回許せないことは?」

「なにも間違っていない姫野凛が理不尽な目に会ったことと、それをネタに話に花を咲かせているやつら全員に腹が立ちます」

「最後に……BL小説を読むと?」

「なんか、ちょっとドキドキします」


 ――終了。


 有巣は爆笑する千鶴さんを茹で上がったような顔でぽかすかと殴っていた。


「つまりこういうことだ。レナは普通じゃない」

「普通じゃないというのは聞き逃せません。理不尽です! 普通じゃないのは、正しいことを正しいと認識できない連中と、その努力や正義をあざけ笑う性根しょうねの腐った人間です」


 姫野は唖然として視線を巡らせる。俺も優しく肯いた。


「なんで……、なんでよ? あたし、今だって逃げることしかできなかったのに。こんなあたしなんか……本当に、駄目人間で……」


 有巣は千鶴さんへの抗議をやめると大きくため息をつく。


「貴様は本当にうじうじと……なめくじのようで見ていられん!」

「だってあたしはこんなにも弱くて情けなくて、もう普通の青春を送ることは無理な――」

「だぁぁぁー! 黙れっ! そして、わたしの話を聞けっ!」


 机を強く叩いて、身を乗り出した有巣に姫野は怖気おじけづく。


「貴様は弱くなんかない!」


 叫んだ有巣は荒ぶる息を気にせず続ける。


「辛さから逃げることも、苦しみに歯向えず耐えることも、弱いことなんかじゃない! 逃げるのだって、耐えるのだって、大変で苦しくて努力がいるんだ。それを貴様は見事に乗り越えたじゃないか。それだけで十分強いじゃないか。わたしは貴様が羨ましいくらいだ!」


 めちゃくちゃだが、有巣の言葉はそれだけ強く、ゆるみなくこの空間に響く。

 きっと姫野の胸にも鋭く刺さったはずだ。


「やっぱり我慢ならん!」


 有巣はわしゃわしゃと頭をくと、最後に大きく、どんな破壊弾を撃ち出すんだと不安になるほど大きく息を吸う。そして、やっぱり吐き出した。


「いいか! わたしが気に食わないのは、貴様が自分を弱いと思いこんだり、あたしなんかと卑下ひげしたり、正しかったことを間違ったと言ったり、他多々! そういう理不尽なところが許せないんだ! 貴様、間違ったと自分でわかっていたではないか。なのになぜ正しさから目を背け、自分を切り捨てた! もともと悩むことなど何もないじゃないか!」


 有巣の両手が乱暴に姫野のパーカーの襟を掴む。


「法的にも倫理的にも間違っていなければそれは正しい。正しいは正義だ! 正義は勝って、日の光を浴びなければいけないんだ。うじうじするのはやめろ、姫野凛! いや、凛! 貴様はわたしの友だ。それに貴様もわたしを大切な友だと言ったよな? ならばわたしにとっても大切な存在だ。大切な存在が理不尽な扱いを受るのを黙って見逃せるほど、わたしは人間できてないんじゃぁぁぁぁぁ――――――――!!」


 壁が鳴り、風が窓をかすめる音と、ぜえぜえと喉が鳴る音が聞こえる。

 有巣は一度に言いきった。


 たぶん、この数日間の鬱憤うっぷんが全て弾け飛んだのだろう。有巣はいつのまにかテーブルに完全に身体を乗せ、姫野の胸倉を引っ張って叫んでいた。


 姫野は全身の力が抜けきったようにソファーからずり落ちる。


「わからないよ……、どうして……。あたしなんか見捨てればいいじゃん。あたしが一緒にいたら、友達なんかでいたら、きっと有巣さん達やCAN部の評判も悪くなるよ」

「ああ。そうかもな」


 有巣は立ち上がり、肩で息を整えながら、厳しい目で姫野をる。


「だがな。そんなくだらん体裁ていさいのために貴様を見捨てる方が、よっぽど胸糞むなくそ悪い」

「だからって……、二人にあたしみたいな想いしてほしくないよ……。そんなの申し訳なさすぎて、心苦しくて――」


 姫野の真っ赤に充血した両目は次に俺を向く。

 濡れる瞳が言いたいことは理解できた。でも、そうじゃないんだ。


「なあ姫野。俺と有巣はべつに姫野のためにそう言ってるわけじゃないんだ。俺と有巣がそう思うから、そうするんだ。ただ俺たちは自分に正直にいるだけなんだよ」


 姫野は目をつむり、顔を歪める。

 その表情が映し出しているのは少しの諦めと、悲しみと、喜びの色だったと思う。


「二人とも立派すぎるよ……年下なのに」

「俺も姫野も同じ高校一年だろ」


 姫野は涙を拭きながら「もう……」と少し無理そうに、だけどやっと微笑んだ。

 そして俺と有巣を同時に視界にとらえると、もう一度、小さく笑みを作る。


「そんなに優しくされたら、またあたし調子に乗っちゃうよ? 迷惑かけちゃうよ? 友達だって……思っちゃうよ?」


 俺は頷き、有巣は上等だ、と不敵な笑みで右手を差し出す。

 よそよそしく、されど力強く握り返す姫野を有巣は起こし上げ、二人は目線の高さで優しく笑い合った。


 やっぱり友情はこうあるべきだ。そう感じたのは俺だけだろうか。


 外に止められた二輪が日を反射して有巣と姫野を照らす。それはまるで雲の間から指す一筋の光のようだった。

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